昨日の続きです。吉田昌平さんの娘さんとの奇跡的な出会いです。
 ブログにも書きましたが、吉田昌平さんのことを僕は、唯一無二の親友だと思っています。大親友であり、戦友でした。僕が東京にどもる人のセルフヘルプグループを作り、これからそのグループを全国に広げていこうとしていたとき、二人でいろんな話をしました。約束通り、京都に戻った昌平さんは京都言友会を作り、それは全国に広がっていく出発となりました。二人で話していると、考えていることが全部実現しそうな気になりました。夢はどんどん大きく広がっていきました。思ったことは何でも話したので、けんかもよくしましたが、すぐに仲直りをして、夢を語っていました。
 そんな大親友なのだから、何でも聞いて下さいと言うと、彼女は、まず、「やさしい人でしたか。短気じゃなかったですか」と聞きました。

 昌平さんはやさしい人でした。声を荒げて怒ることなどありませんでした。体は大きくて、声も大きかったけれど、気持ちは優しく、性格はおおらかで、相手を思いやることのできる人でした。穏やかな人でした。人徳があり、彼の周りにはいつも人が集まってきました。彼は突然、29歳という若さで亡くなりましたが、葬式にも、何年後かの偲ぶ会のときにも、大勢の人が集まったことをよく覚えています。

 「父は、あがり症ではなかったですか」と、彼女は聞きました。自分が、1年前に、社員の結婚式で主賓の挨拶をするとき、ものすごくあがってしまい、手が震えたことがあり、それと関連づけての質問でした。
 僕は、そんなことはなかったと思うと答えました。リーダーをしていた僕も昌平さんも、大勢の人の前で話したり挨拶したりすることはよくありました。あがって、手に汗かいて、のようなことはなかったと思います。ひとつ、よく覚えているのは、亡くなる10ヶ月前に開いた第一回吃音問題研究集会での開会の挨拶です。昌平さんは、大勢の参加者を前にして、「本日は…」と言おうとして「ほ」がなかなか出ず、少しの沈黙の後、とっさに大きな声で、「ハ、ヒ、フ、ヘ、本日は…」と始めました。この開会の挨拶は、参加者にとって、とても印象的なできごとでした。あがり症ではないと思うし、どちらかといえば、本番に強い人だったと答えました。それを聞いて、彼女は、「私も本番に強いと思ってたんです。確かに強かったんです。だから、1年前の結婚式でのことがショックというか、忘れられないんです」と言っていました。

 ご自分の話もたくさん話して下さった彼女との時間は、本当に楽しく、なつかしく、いい時間でした。

 「父は何をしたかったのでしょうか」
 これがもしかたしら、彼女が一番聞きたかったことなのかもしれません。これは、昌平さん自身に聞かないと分からないことなのですが、僕も考えてみました。強く覚えているのは、病院に行くと、よく言っていたことがあります。
 「伊藤、大阪教育大学の一年の勉強が終わったら、東京へ戻るやろ。そのとき、俺も、家族と一緒に東京へ行くわ、やっぱり東京で活動するのが一番や、伊藤と俺の二人がそろえば、いろんなことができるで」
 ずっと、吃音のこと、会のことを考えていました。僕は東京には戻らず、大阪教育大学の教員になり、大きく活動が展開していきました。その後の僕の活躍を彼はきっと喜んでくれると思います。「吃音の虫」ということでは、吃音を愛し、どもる人を愛していたことは共通ですが、吃音をどうとらえるかは、少し違っていたかもしれません。昌平さんは、吃音を障害ととらえ、それを社会に知らしめて、社会が困っていることを手助けしないといけないとし、社会運動を展開しようとしました。僕は、吃音を、障害ではなく、人の話し言葉のひとつの特徴だととらえていました。その違いはありますが、どちらも、どもりがどもりのまま認められる社会を作りたいというのは共通でした。そして、日本だけでなく、世界の仲間とつながっていこうというのも共通でした。
 だから、彼が亡くなった後、「吃音を治す努力の否定」を提起し、「吃音者宣言」を出し、京都で第1回吃音問題研究国際大会を開いたことも、子どもたちの吃音親子サマーキャンプを続けていることも、昌平さんがしたかったことと大きな違いはないだろうと確信しています。
 昌平さんが亡くなるとき、僕は、声にはならない昌平さんの思いを聞きました。「伊藤、どもりのことは、頼むよ」と言われているような気がしました。きっと、今、僕が考え、取り組んでいることを、昌平さんは応援し、喜んでくれているだろうと思います。

 二度と会えるはずのない人と、直接、本人ではないけれど、娘さんと出会えたこと、この運命的な出会い、不思議な縁を思うと、人間っておもしろいなあ、生きているということはいいもんだなあと思いました。夢を語り合った昌平さんの分まで、僕は、今、できることを精一杯取り組んでいこうという思いを強くしています。その勇気を、48年間という時を超えて、もらいました。彼は僕のことを「伊藤」と呼び、僕は一歳年上の彼を、「昌平」と呼んでいました。自分の「娘」と、「伊藤」が48年の歳月を超えて出会い、長い時間自分のことを話している姿を、「昌平」はとても喜んでくれていると思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/21