人間っておもしろいなあと思うときがあります。不思議な縁というか、運命の出会いというか、そんなことを思える日でした。
 金曜日、ひとりの訪問者がありました。その人は、48年前に亡くなった吉田昌平さんの娘さんです。吉田昌平さんのことは、このブログでも紹介したことがありますが、僕と出会ったのは、東京でした。1965年、21歳のとき、僕はどもりを治すために東京正生学院に行き、そこでの訓練に見切りをつけ、治すことをあきらめ、どもりながら生きていこうと、どもる人のセルフヘルプグループを作って活動を始めた頃でした。1966年、京都から、同じようにどもりを治そうと東京に出てきていた吉田昌平さんに出会いました。東京のオンボロの事務所に昔からいたみたいに住み着いていた吉田さんのことは、今年の2月にブログに書いています。そのブログを再掲します。
 吉田さんの娘さんは、そのブログをみつけて読んで下さって、僕のところに連絡してくださいました。ブログを読むようになったきっかけは、彼女が経営する会社を訪れたひとりの女性との面接でした。その人は、別の会社を辞めて、彼女の会社の面接を受けることになっていました。正確には、前の会社を辞めさせられて、と言った方がいいかもしれません。その理由を聞くと、彼女が吃音だったからなのでした。どもることは社長も知っていました。それを承知の上で雇ったのに、配属された指導役の上司から「そんなにどもっていて、営業なんかできるわけがない。なぜ営業を希望したのか」などと、ひどいことを言われ、とうとう彼女はその会社を辞めました。
 「吃音」ときいて、娘さんは、父親も吃音だったことを、ふと思い出します。父親の昌平さんが亡くなったのは、娘さんが生まれて1ヶ月後のことです。父親のことは全く知らずに育ちました。知りたいとも思わず、これまで生きてきました。でも、父親が吃音だったということは、母親から聞かされていたのでしょう。父親の名前と吃音と入れて検索してみると、ひっかかったのが、さきほどの僕のブログだったというわけです。そして僕に電話をしてきて、昨日の来訪となったのです。
 なんとも劇的な、人生っておもしろい、捨てたもんじゃないと思える話でしょう。
 ではまず、不思議な出会いのきっかけとなった、ブログを再掲して、つづきます。


故吉田昌平氏の思い出
 私が言友会の活動の中で涙を流したのは、旧事務所が取り壊される時と吉田昌平氏の死に直面した時の2回である。
 言友会が好きで好きでたまらなかった彼と私はまさに言友会の虫であった。言友会の大会の議事の最中に喧嘩をしたり、意見が合わないと言っては何度も喧嘩をした。「お前みたいな奴とはもう会いたくない」とお互いに何度この言葉を言い合っただろうか。それでも私たちは離れることはなかった。彼は私にとって本気で怒りをぶつけられる相手であった。
 彼との出会いは昭和41年7月の下旬であったろうか。久しぶりに事務所を訪れた私は、見かけない男が一人、自分の家のように住みついているのを見て驚いた。一見おとなしそうで、変に図々しいこの男の間の抜けたけた話しぶりが、この家にいることの正当性を主張していた。
 話してみると愉快な男で、自分が何故ここに住んでいるのかを、おもしろおかしく語ってくれた。どもりに悩み、なんとかどもりを治したいと思いつめた彼は、職を捨て、恋人と離れて東京のどもり矯正所に来たのだった。
 そこで言友会を知り、例会に参加するうちに会がおもしろくなり、京都にも言友会を作ろうと決意したという。
 ちょうど夏休みに入っていた私は、彼と私と、そしてSとIとの4人で共同生活を始めた。彼が土方やダンプの運転手をして稼いだお金は、私たちの夕食代に消えていった。カレーライスやブタ汁を作り、夜も遅くまで語り明かした。2ヶ月にわたる私たちとの付き合いの中で、彼は京都で言友会を作るエネルギーを貯えていった。
 彼は、その後京都に戻り、言友会を作る活動を開始した。9月下旬京都に帰り翌年の6月まで、職につかずに彼は言友会の専従として仲間作りや事務所作りに専念した。
 活動家が育ち、会が軌道に乗ったのを見届けて、彼はタクシーの運転手になった。どもりながらも親切に応待する彼のタクシーは評判であったが、その料金収入のカーブは言友会の活動に対する貢献度と見事に反比例し続けた。
 その後、京都ろうあセンターの職員になった彼は、水を得た魚のように手話通訳や聴力検査・聴能訓練に打ち込んでいった。彼の豪放でユーモラスな性格と、人並み外れた行動力は、ろうあ者と吃音者との結びつきに大きな役割を果たした。彼のシンボルとも言うべき大柄な体と太い手の指で、体ごと語る彼の手話はろうあ者の信頼を得ていった。「僕は手話をやりながら話すとどもらない、君も手話をやったらどうだ」と私たちにも推めたものだ。
 彼は京都、私は東京と生活の場は離れたが、二人は良く会った。彼は、私のことを「千三つ」と言っては良くからかった。大風呂敷を広げた話ばかりで、千に三つしかまともなことを言わないと皮肉るのだ。その彼とて、私に勝るとも劣らず話が大きかった。私たち二人が会うと夢は大きく広がった。
 彼は、良く東京に出てきては私と新宿のサウナで話し合った。私たちは、それをサウナ会談と名付けた。京都では受け入れてもらえない話でも、東京では受け入れられて話が進んでいく。それに力を得ては、彼は「東京は実行することを決意し動き始めた」と京都の会員を説得し、強引とも言えるやり方で京都言友会をリードしていった。
 その現われが、吃音専門雑誌『ことばのりずむ』の発行であり、第1回吃音問題研究集会の開催であった。
 当時、全国に言友会が広がりつつある情勢の中で、彼と私は「吃音児・者の指導はいかにあるべきか」「各地で吃音に対してどのような取り組みがなされているのか」「吃音とは何か」などを全国のレベルで総合的に考える雑誌や研究会の必要性を感じていた。京都と東京が一体となって雑誌作りが進められ、昭和46年9月『ことばのりずむ』が創刊された。その後、彼が病に倒れるまで彼を編集責任者とする京都言友会がその発刊の責任を担っていった。
 昭和47年5月には、彼を実行委員長とした第1回吃音問題研究集会が京都で開かれた。彼なくしてはとても開かれなかったと言われる集会であった。冒頭の「ハヒフヘ本日は……」で始まった実行委員長の挨拶は、未だに参加者の心に残っている。思えば、この吃音問題研究集会が終わった頃から彼は時々頭痛を訴えるようになっていた。
 正月には一緒にマージャンをやろうと言っていた彼が、卓を囲む直前の昭和47年12月29日、病に倒れた。すぐ京都の病院に駆けつけた私は、大きな体の彼が小さくなってベッドに横たわっている姿を見て胸が締めつけられた。「伊藤やで」と言った私の声に頭だけを動かしてわかったという合い図をしてくれた。
 その後、一進一退を続けた彼だが、時には見違える程元気な時もあった。そんなある時、彼は私にこう言った。
 「なあ伊藤、この春大阪教育大学を卒業したら東京へ帰るやろ。オレも病気が治ったら家族みんなを連れて一緒に東京へ行くわ。二人で東京言友会の専従をしたら東京で大きな事ができるで。やはり東京は日本の中心や、東京で活動しなきゃなあ。早く治りたいわ……」
 彼は病の中でも常に言友会のことを考えていた。その彼が、突然、余りにも急に昭和48年3月29日、帰らぬ人となった。病名は脳腫瘍であった。私の胸の中で、彼は今も生き続けている。「言友会を頼むよ」、彼はニッコリ笑ってそう言っているようだ。(1971年9月24日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/20