鴻上さんによる、『週刊SPA!』のエッセイの4回連載の最終を紹介します。
 どもる人はよく「思っていたことの半分も言えなかった」と言いますが、それは、どもる人に限らず、どもらない人にとっても同じことのようです。思いをことばにすることは難しいです。ことばに悩んできた僕は、だからこそ、ことばを大切にしたいと思うのです。
 本当に言いたいことは、どもってでも言いたいし、伝えたいです。吃音に悩んでいるとき、本当は言いたいのに飲み込んできたたくさんのことばがありますが、「どもれる体」になってからは、自然にどもれるようになりました。僕たちの体験を、鴻上さんは「どもる力」と表現しました。うれしいことばでした。また、このつづきを、ご著書『ドン・キホーテは眠らない』のあとがきにも、書いて下さったのです。明日は、それを紹介します。

ドンキホーテのピアス (399) 『週刊SPA!』2002 12/10

「言葉はいつも思いに足りない」ということ

 さて、先週の続き、「どもらなければ言葉との距離はないのか?」という話です。
 僕が大学生の頃、山手線の電車の中で、近くにいた中年のカップルの会話が聞こえてきました。
 「ねえ、私のこと、愛してる?」
と女性が言うと、中年のサラリーマンの人は、
 「ああ、愛してるよ。……いや、『愛してる』っていう言葉じゃないな。『好き』……いいや、これも違うな。……『ほれてる』……うん、近いけど、これも違うな。……『やりたい』……そういう部分もあるけど、全部じゃないな」
と、自問自答を始めたのです。
 見れば、中年のサラリーマンは、ふざけているのではなく、今、自分の抱えている感情に、できるだけ、"正確に"言葉を当てはめようと一所懸命のようでした。
 自問自答はまだ続いて、「……『抱きたい』……うん、これも間違ってないけど充分じゃないし……『好きや』……うん、近いけど……『一緒にいたい』……そうなんだけど……『そばにいてくれ』……『いとしい』……ううん、違うなあ」
と、終わりそうにありませんでした。
 女性は、微笑みながら、ふうふう言ってる男性を見ていました。
 いったい、どういう言葉にたどり着くんだろうと思っていたら、駅に着いて、二人は降りてしまいました。
 「言葉はいつも思いに足りない」
 という有名な言葉があって、なんのことはない僕の言葉なんですが、人は恋をすると、初めて、自分の感情と言葉との距離を自覚するのです。
 それは、初めて自分の感情をじっくり見つめる、ということかもしれません。
 そして、じっくり見つめた自分の感情を、ちゃんと正確に相手に伝えたいと熱望するということでしょう。
 すると、どんなに言っても言っても、自分の感情を正確に表してないというもどかしさを感じるのです。
 心の中にある溢れる思いに対して、言葉はなんともどかしく、不便なのかということを(多くの人は)初めて知って、衝撃を受けるのです。
 でもまあ、恋愛でこういうことを知るのは、とても幸福なケースで、仕事なんかで、言っても言っても自分の意図が伝わらず誤解されてしまう時は、「自分の感情やイメージと自分の言葉との距離」ではなく、「相手の鈍感さ」に原因を求めてしまう傾向があって、なかなか、本質的な「言葉の距離」を自覚することはないのです。
 恋愛だと「どうしてちゃんと伝わらないんだ」と悲しくなって"言葉の距離"に思い至りますが、仕事だと「どうしてちゃんと伝わらないんだ。やっぱ、あいつはバカなんだあああ!」と"上司との距離"になってしまう傾向があるのです。
 と、いうようなことを考えると、「どもっている人だけが、自分の感情と言葉の距離を感じる」というのは、ちょっと違うんじゃないかと思えてくるのです。
 そして、どもるがゆえに、時々、発せられる言葉にドキッとさせられるのは、この「言葉との距離」を自覚しているからじゃないかとも思うのです。

言葉が出ないことで気づく言葉との距離

 「だ、だ、だ、だ、だ」とどもり、そして、「だ、だめだよ!」と全身の体重と熱を言葉に乗せたような言い方で言葉を発し、しかし同時に、その言葉に対して、「私はこの言葉以上のことを言いたいんだ。でも、うまく言えないから、この言葉にたっぷりの感情とイメージを込めるんだ」という、"体温"を感じる時に、僕はその言葉にドキッとします。
 そういう瞬間が、夜、吃音のショートコースに参加した人達と、ビール飲み飲み話していて何度もありました。
 それは、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつないでいる"時間には、体験しない言葉の衝撃でした。
 そして、ここでもまた英語との共通点になるのですが、海外の英語学校に留学した日本人の、特に女性の多くは、英語学校の休み時間に、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつないでいる"という日本では当たり前だった時間の逃げ方ができなくてがく然とするのです。
 感じる前にオートマチックに言葉がでて、とりあえず空間を埋める、ということをこなすためには、英語がオートマチックに出ないと不可能です。
 が、それはかなりの英語の水準で、それはとても難しく、結果、日本人女性の多くは、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつなげない"という瞬間に初めて出くわします。
 これは衝撃の体験で、つまりは、人間関係の生の形に出会うわけで、多くの日本人は休み時間の間、ただ黙って微笑んでいるか、誰も会わないように逃げているか、"どうでもいい話"をするために日本人を探すかの道を選んでいるのです。
 そして、そういう生活がしばらく続くと、だんだんと、"これだけは言いたい"というモノが出てくるのです。
 このことだけは休み時間に話したい、と思うようになった時、「いったい、自分は今まで、言葉とどう付き合ってきたんだろう?」と思うようになり、そして、自分がいかに、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつないでいたか"を知って、また、がく然とするのです。
 うまく言葉が言えない経験をして初めて、距離を自覚しない言葉を、だらだらと並べていたんだなあと気付くのです。
 というようなことを、吃音ショートコースというワークショップに参加して思いました。四週に渡って書きましたが、じつは、まだまだ思っていて、それは、今度は発売されるドン・キホーテのピアス第8巻『ドン・キホーテは眠らない』の"あとがき"に書きました。
これだけのことを思わせてくれたのも、"どもる力"だったと僕は思っています。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/5