2002年の吃音ショートコースのゲストは、劇作家の鴻上尚史さんでした。鴻上さんとの出会いは、それより前で、青森で開かれたデザイン会議でした。イギリスから帰国したばかりの鴻上さんは、ことばで苦労する僕たちどもる人間の話を聞いて、うん、待てよ、この感覚、俺は知ってるぞ、と思って下さいました。英語圏に行って、思っていることを伝えられないもどかしさを感じておられたからでした。
吃音ショートコースでは、鴻上さんのマジックにかかったみたいに、みんな自分の表現に向かって、様々なエクササイズに、楽しく、真剣に取り組みました。ウインク殺人事件など、今でも鮮明に思い出すことができます。
その吃音ショートコースに来て下さった後に、鴻上さんは、ご自身がコラムを持っておられた『週刊SPA!』に、4回連載で、吃音ショートコースでの経験をエッセーとしてまとめて下さいました。
鴻上さんのコラムが楽しみで、ときどき、僕は、『週刊SPA!』を立ち読みしていました。そして、先日、27年続いたそのコラムを終えるという記事を読みました。これで、鴻上さんに会うことができなくなったと寂しくなりました。
そこで、その4回連載の記事を紹介します。今日は、そのはじめとして、連載を紹介しているニュースレターの一面記事から紹介します。2003年2月に書いたものです。明日から、鴻上さんの4回連載となります。
鴻上さんが初めて使って下さった「どもる力」ということば。今、僕たちは、その「どもる力」を大切に、どもりながら豊かに生きることを目指しています。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/1
吃音ショートコースでは、鴻上さんのマジックにかかったみたいに、みんな自分の表現に向かって、様々なエクササイズに、楽しく、真剣に取り組みました。ウインク殺人事件など、今でも鮮明に思い出すことができます。
その吃音ショートコースに来て下さった後に、鴻上さんは、ご自身がコラムを持っておられた『週刊SPA!』に、4回連載で、吃音ショートコースでの経験をエッセーとしてまとめて下さいました。
鴻上さんのコラムが楽しみで、ときどき、僕は、『週刊SPA!』を立ち読みしていました。そして、先日、27年続いたそのコラムを終えるという記事を読みました。これで、鴻上さんに会うことができなくなったと寂しくなりました。
そこで、その4回連載の記事を紹介します。今日は、そのはじめとして、連載を紹介しているニュースレターの一面記事から紹介します。2003年2月に書いたものです。明日から、鴻上さんの4回連載となります。
鴻上さんが初めて使って下さった「どもる力」ということば。今、僕たちは、その「どもる力」を大切に、どもりながら豊かに生きることを目指しています。
どもる力
伊藤伸二
昨秋、吃音ショートコースに、鴻上尚史さんに来ていただいたのは、これまでのワークショップの取り組みが、言うならば、マイナスからゼロの地点に向かうものとしたら、ゼロの地点から一歩前に進むための後押しをしていただきたかったからだ。
「吃音否定」から、「あなたはあなたのままでいい」への道のりは決して平坦ではない。だから、「治す努力の否定」から、30年という長い年月をかけて、じっくりと取り組んできた。その取り組みは必ずしも十分とは言えないけれど、一歩前に進んでもいい時期にきていると判断したからだ。
「吃音のワークショップに参加してきた」と、4週連続で『週刊SPA!』に吃音について書いて下さったエッセーの4回目の締めくくりに、「これだけのことを思わせてくれたのも「どもる力」だった」とある。この、「どもる力」は、私にひとつの決心をさせ、後押しをして下さった。
私は、どもる人とは、「人間関係やからだやことば、コミュニケーション、生きることなどを吃音を通して考えるテーマを与えられた人のことである」と定義してきた。深刻に悩むのをやめ、真剣に吃音と向き合うことによって、吃音に悩んだことが大きな生きる力となった。今では、「吃音でよかったと」心底思う。しかし、これは私個人の経験であり、一般化はできないとも思ってきた。ところが、13年の吃音親子サマーキャンプの子どもたちの大きな変わり様を目の前にして、普遍的なものとして、発言してもいいのではないかと思うようになった。
一昨年の吃音ショートコース。敬愛する吃音の大先輩、映像作家の羽仁進さんが、「吃音の背後には非常に広い世界がある。それをもっと見つめる必要があるんじゃないか」と言って下さったのが、「どもる力」なのだろう。
この1月。私は、平井雷太さんの研修講座にゲストとして招かれた。これまで、吃音とは全く縁も関心もなかった15名ほどの参加者の中で、平井さんと私が吃音について語ると、周りの人たちの羨望のまなざしを感じた。共感をもって受け止められていると感じられたとき、「どもりっていいでしょ。うらやましいでしょう」とつい言ってしまった。
紀元前のデモステネスの英雄伝説から、営々と続いてきた、「吃音は治すべきもの」は、吃音をマイナスのものとしかとらえないからだ。「どもってもいい」が、どもる子どもたちの真の応援歌になるためには、吃音をマイナスものととらえないだけでなく、むしろ「どもる力」を考え、提示していく時期にようやくたどりついた。
吃音に悩み、吃音と向き合うことが、人間として生きる上で、大きな力になり得ること。そして、どもる人の経験が、周りの人にも影響する力をもつこと。この二つの力を含めて、鴻上さんは「どもる力」だと言って下さったのだろう。吃音に悩み、吃音と向き合うことでどのような力が育つだろうか。とりあえず浮かぶ項目だけを挙げてみたい。
テーマと向き合う力
「自分探しの旅」が一時流行した。自分探しとは、自分の生きるテーマ探しだともいえる。多くの人が、自分のテーマが見つけられずにさまよう中で、どもる子どもは、いち早くテーマをもつことができる。
ことばを豊かにする力
どもる子どもは、早くからことばに敏感にならざるを得ない。どもらないためにとする、ことばの言い換えは時として、語彙を豊かにする。本当に言いたかったことは何かの内省も、ことばの鍛錬になる。
考える力
吃音とともに生きることを考えると、様々に選択肢が広がる。吃音が治らないとして、どう生きていけばいいか。どんな力をつければいいか。真剣に考える力が育つ。
マイノリテー感覚の経験
鴻上さんが、教育にとって一番大切なことはマイノリティー感覚をバランスよく経験することだと言われる。吃音は、この感覚を否応なしに経験する。
孤独の力
仲良きことはいい。本当にそうか。吃音の悩みは、時に人を孤独にさせる。孤独を生きる力は、今後大切な力となるだろう。
「スタタリング・ナウ」NO.102 2003.2.21
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/1