昔のニュースレターを読み返して、どもる人の体験を紹介しています。作者の名前も顔もよく覚えている体験もあれば、思い出せないものもあります。本当にたくさんのどもる人に出会ってきました。55年もどもる人のセルフヘルプグループに身を置き、世界大会に6度参加し、30年間吃音親子サマーキャンプをしたり、全国各地で吃音キャンプの講師をしてきた僕は、おそらく、世界で一番、どもる人やどもる子どもたちに出会ってきただろうと思います。
 今日、紹介するのは、山本さん。出会ったとき、70歳だった山本さんですが、柔軟な考え方のできる人でした。新しい生き方、新しい吃音人生は、何歳からでも始めることができると教えていただいた人です。

 
70歳から始まった、新しい吃音人生
                  山本進  大学図書館司書(71歳)

 さくらホールでは木下順二作「タ鶴」が上演されていた。舞台装置も背景もない素朴な演劇。つうと与ひょう、その他の出演者の演技、セリフに迫力があり、会場は出演者と観客が一体化して熱気に溢れて、感銘と余韻を残して終わった。出演者は全員素人であり、どもる人だという演劇だが、その演技、セリフはどもらない人と変わらず、むしろそれ以上であることは、どもる私にとって、まさに驚きであり、表現できない深い感動を覚えたものであった。
 1998年11月23日、「どもる人のことばの公開レッスンと上演」に参加した時の印象である。
 難聴で言語障害の経験のある演出家の竹内敏晴さんの「ことばのレッスン」の、声を出す、靴が鳴る、タ焼け小焼けの合唱までは、これは新しい吃音矯正方法だと思い、私も大きな声を出して加わっていた。
 局瑤貌り、番組は木竜うるし、トム・ソーヤ、悪党と進み、タ鶴が始まるころには、私の意識は段々と変化してきた。この明るい、自信に満ちた顔、笑顔、言葉。そこは私が長い間悩み、こだわってきた「どもり」の世界はなかった。この明るさと自信は何だろう、どうしたらこうなれるのだろう。私は自分の目で見て、耳で聞いたこの現実に深い衝撃を受けた。そして私は今まで感じたことのない期待と希望で胸がふくらむ思いがした。
 私はこの事実と疑問を解決したい思いで、会場で販売していた図書、資料類を買いあさった。私がこの行事を知ったのは、1998年11月14日の朝日新聞の記事。「吃音の人ら、舞台に挑戦」という見出しがあった。「吃音」「どもり」という文字には敏感に反応する。早速切り抜いたが、11月23日は、親戚との恒例の旅行の日で、玉造温泉に行くことになっており、この行事は私には縁のないものと思っていた。事情でこの旅行は中止になった。今思うとこの日に旅行に行っていれば大阪吃音教室との出会いはなかったのである。
 会場で入手した資料は、『障害の受容』『からだ・ことば・こころ』『アサーティブ・トレーニング』『セルフヘルプグループ』『どもり・親子の旅』等であった。これらの資料は、私がいままでに読んだ吃音関係のものとは根本的に違う、新しい吃音に対する認識を提示していた。吃音の矯正ではなく、吃音の受容、吃音とつきあうということに特に興味を覚えた。私は吃音は社会生活には不便だが、訓練と努力によって矯正できるものだと思っていた。私は自己流だが、年を経るにしたがって若い時のひどい吃音と比べると日常生活に差し支えない程度には治っていたように思えるからである。しかし会議の発言、自己紹介、公衆の面前でどもるたびに自己嫌悪に陥っていた。
 『障害の受容』の吃音の受容は、初めて知った言葉で、奈良善弘氏の「53歳で初めて吃音とのつき合いが…大阪吃音教室の体験」を読んで共感を覚えた。そして私はこの「吃音の受容」をもっと深く知りたいと思った。また、『からだ・ことば・こころ』の、竹内敏晴さんの「どもる人達の『夕鶴』につきあって」を読んで、私が感動と驚きをうけた、どもる人のあの明るさ、自信に満ちた生き生きとした顔、言葉の謎が解けた感がした。
 このレッスンこそ、どもる人が言葉を取り戻す方法ではないか。「レッスン参加者の声」から、私はあらためて希望と期待を覚えた。
 11月27日(金)に私は初めて森の宮のアピオ大阪で行われている大阪吃音教室に出席した。2階の部屋の扉のまえには「大阪吃音教室」と書かれた案内板が立っていた。中に入ると若い人ばかりで、年寄りは私一人なのでいささか戸惑った。例会が始まり、私は新人として紹介され、このような自己紹介をした。
 「私は皆様の演劇を見て感動して、この教室に参りました。長い間どもりをやっています。私はなるべく喋らないですむ仕事と、大学図書館員になり、現在まで44年間大学図書館の司書として勤務しています。ひどかったどもりも今は日常生活や仕事に差し支えない程度になっています。私の職業選択はどもりが要因になっているが、今ではこれでよかったと思っています。年は70歳になりますが、年齢に関係がなく思い立った時が始まりだと思います。皆様の仲間に加えて下さい」
 その日の大阪吃音教室のテーマは「どもる人のための書くトレーニング」であった。私は戦時中の中学生時代に、どもりのために軍事教練で悩んだことを書いた。例会終了後の喫茶店での集いは楽しく、仲間になれるのではないかという感触があった。私と大阪吃音教室との出会いは、こうして始まった。
 私が背負っている「どもりの人生」について少しふれよう。私は旧満州の奉天市で生まれ育った。私のどもりは幼稚園時代から始まっている。小学校時代はどもっていたが、特に悩んだ記憶はあまり無い。育った所がおおらかな土地であったのでむしろ楽しい思い出のほうが多い。
 どもりの悩みの記憶が今でも残っているのは中学生時代である。昭和16年に入学した時はまだ自由な雰囲気が残っていたが、その年の12月8日、対米英宣戦布告により太平洋戦争が始まると、校内の事情は一変した。軍国主義の教育により、学校は軍隊化して軍事教練が強化されてきた。号令、自己申告、復唱、軍人勅諭の暗唱、毎日がこれの連続であり配属将校からは常に屈辱をうけた。どもりにとってはまさに苦難の時代であった。
 私はどもりを治したいと真剣に考えたが、むしろひどくなっていた。4年生になると級友は陸軍士官学校、海軍兵学校を目指すものが多く、志を遂げない者は甲種飛行予科練習生を志願した。どもりである私は教練の成績は最低で、全く縁がなかった。私は私自身で進路を選ばなければならなかった。当時の徴兵適齢期は満17歳以上に繰り上げられて、兵役に編入されたが、理科系の学校のみ徴兵延期の措置があった。私は文科系であったが、不得意な理科系に進むことを決めた。私はなんとか満州医科大学予科と旅順高等学校理科乙類に合格でき、旧制旅順高校に入学した。私はこの時ほど勉強したことはない。それは私がどもりであったため、あの苦難の時代を生きるために自分で考えた手段であったと思っている。全寮制の高校生活は充実し、夢と希望に満ち、私の人生では最高の青春の思い出である。
 昭和20年8月9日ソ連軍の侵攻、8月15日終戦、終戦後の満州はソ連軍、中共軍、国府軍の占領下で混乱を極めた。学校は閉鎖され、奉天に帰った私は家族を守るためになりふりかまわずに生きていた。当時外地にいた者の共通の体験である。私はどもっている余裕などはなかった。
 引揚後は無一物の生活で、転入学の意志はあったが学校どころではなかった。引揚から半年後、私は過労で倒れ、肋膜炎、肺結核を発病して約3年間にわたる療養を余儀なくされた。唯一の資本である体力を奪われ、復学の夢は消えて悶々の日を送っていた。病が小康状態になっても、絶望、悔恨、無気力、鬱状態の日々で、どもりはひどくなっていた。病が回復してくると、将来のことを考えるようになり、なるべく喋らないですむ仕事ということで、東京にあった文部省図書館職員養成所という学校を見つけて受験したところ合格して、卒業後大学図書館員になった。現在まで44年間大学図書館の司書として勤務している。ひどかったどもりも今は日常生活や仕事に差し支えない程度になっている。私の職業選択はどもりが要因になっているが、今ではこれでよかったと思っている。
 私は金曜日になると大阪吃音教室に通った。1年近く休まずに出席している。例会は明るく、楽しく私をひきつけるものが多くある。私が前述の行事で感じたことを、事実として、体験として知ることができ、新たな希望と期待が生まれてきた。ここに集まって来る人々は吃音という共通の悩みを背負って生きてきた人々である。多くの人々と語り、聞き、それぞれの人々の多様な「どもりの人生」を知ることができ、今までに経験をしたことのない縁と絆を感じている。
 私の「どもりの人生」は一人で悩み、一人でもがいていた全く孤独そのものであった。大阪吃音教室ではグループで悩みを語り、解決法を考えている。この出会いは、私にとっては全く新しい「どもりの人生」の発見であった。もっと早く出会っていたら私の人生は変わっていたと思う。しかし長い間のどもりの遍歴を経て出会ったことも無駄ではなかったと思う。私の「どもりの人生」は私の貴重な財産である。私はこの出会いを大切にして、残った人生を前向きに少しでもお役に立ちたいものだと心から願っている。(2000年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/13