今回、過去のニュースレターから見つけて紹介しようとした丹野さんの「娘の卒業式に謝辞を読む」の前に、丹野さんとの出会いに始まり、言友会誕生のエピソードや活動の思い出で、長い寄り道をしてしまいました。
 当初の目的だった、丹野さんの体験を紹介します。
 以前、紹介したことのある「仲人を引き受けて」の奈良善弘さんも、その挨拶の中に、自分の吃音のことを盛り込んで、挨拶文を作り、会場の参加者に感動を与えました。
 当の本人に感動を与えようという気など全くなかったと思いますが、自分のことを誠実に率直に語る中に、人は自分と重なるものを見つけ、心を揺さぶられる経験をするのでしょう。吃音にはそんな力があるのだと思います。1965年の秋に出会ったときは、ほとんど、どもらないように見えた丹野さんですが、吃音で苦労してきた仲間だったのだと、思える体験です。丹野さんの「娘の卒業式に謝辞を読む」を、3回に分けて紹介します。

娘の卒業式に謝辞を読む
      東京言友会会長  丹野裕文(歯科医師)

§謝辞の依頼
 私の一人娘は、この三月に中学を卒業した。
 二月の初め、娘の通っている中学校の副校長から私に、卒業式で父兄を代表して「謝辞」をするようにと要請された。
 学校の役員をしている私の妻は、その日のうちに副校長に会い「主人はどもりなので、うまくやれるかどうかわからない」と話したところ、「そういう人こそ適任です。生徒達も感激するでしょう」と言われたという。
 私はその話を聞くと、自信が持てず妻に断りに行ってもらったのも忘れ、持前の反骨精神が涌いてくるのをおぼえた。
 現在の私には正直言って何かが欠けていた。青春時代のような熱気あふるる情熱、やる気が、年令を重ねるうちに次第に無くなってきたようだ。毎日の仕事に追われ、雑用に追われて単調な生活に埋没してきたような気がする。私にはもっともっと、前向きな何かがあったはずであると思いつつ。

 思い返すと、どもりで一番苦しみ悩んでいた高校時代。「よし! 弁論大会に出てみよう!」と発奮し、どもりに挑戦していった日々があった。あの時、私の家は貧しかったので、一年間余り毎朝早起きして新聞配達のアルバイトをし、それでためたお金で、当時最も権威のあったどもりの矯正所「東京正生学院」に行ったのだった。あの日から、もう何十年の歳月が流れていったことだろうか。
 あの頃の一日一日は本当に充実していた。毎日が来るのがとてもとても楽しかった。後ろを振り返る余裕などなく、ただひたすらに前をのみ見て歩いていた。
 高校三年生の時弁論大会に出場し、準優勝をして、どもりに対しての考えが前向きに変わってきたように、今現在、何となくたるんだ、中年のわびしい人生を送っている自分自身に「活」を入れるためにも、私にとって何か刺激が必要であった。
 「よし! 謝辞を読むことを受けよう!」私は決心した。「子供達に私のどもりの体験を話し、これからの人生に何かを感じ取ってもらおう。」と考えると、久しぶりに青年のようなエネルギーがほとばしってくるのを感じた。

§準備
 私は早速「何を話すべきか」を考え、謝辞の構想を練った。学校側から貸していただいた前年度の謝辞の文章を見て、あまりの美辞麗句の連発にいささかとまどってしまったが、私にはやはり「どもり」を中心にした文章を書くことしか目的がなかった。誰が聴いてもわかるような、やさしい内容の文章にすることにした。そして大体の草案を持って、副校長に初めてお会いし、内容の了承をもらうことができた。文章の清書を著名な書家に巻紙に書いていただき、改めて読み直すと、自分でも満足のできるものであった。
 この充実感を何と表現したらいいか。人間は目的目標を持つと、これ程までも変わっていくものなのか。
 私はこの充実感に大いなる満足をおぼえた。

 高校三年生の時、弁論大会を前にしての練習方法は、もっぱら演説の練習で、公園の中や電車の中、駅の待合室、上野の西郷さんの銅像の前でと、若さにまかせて恥も外聞もなく練習をしたものであった。
 中でも特に電車の中での練習は面白かった。当時の電車は、車内の真ん中に金属のポールが立っている。それに背をもたせて大きな声で、「車内の皆さま!突然大声を張り上げて申し訳ありませんが、私のつたないどもりの体験談を聞いて下さい。」とやったものだった。
 この車内演説は、最初の第一声で車内の乗客が一斉に私の方を見るので、相当度胸がつく方法であった。
 痛快だったのは、これまで学校で「どもりの丹野」とからかっていた連中と一緒に電車に乗った時に、いきなり連中のそばで、「車内の皆さま……」とやった時である。連中は顔を真っ赤にして、ひたすら私の前から逃げていったのであった。
 しかし、現在の私にはそんな練習をする度胸もないし、機会もなかった。それに社会的な体裁ということもある。そこで私が考えた方法は、ともかく度胸をつけること一本にしぼったものである。それには「カラオケ」が一番手っ取り早かった。見も知らぬ人の前で、わざとセリフの入った歌を情をこめて歌うのである。卒業式の本番までに、私は練習という名目で何度もそういう「巷」をさまよい歩いた。(1990.4.30 つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/24