障害の受容、吃音の受容、自己受容、そのようなことをよく言っていた時期がありました。しかし、いつの頃からか、「受容」のことばに抵抗をもつようになりました。吃音や自分を受容できないと、自分を否定する人に会ってきたからです。自分の人生を振り返っても、吃音に深く悩んでいたときに、「吃音を受容すれば、自分を受け入れたら」と言われても、到底受け入れられなかっただろうと思います。吃音を受け入れられないと悩む人に、「受け入れなくてもいいけれど、今、あなたは実際にどもっているよね。その事実は認めますか」と尋ねると、「それは事実だから、認めざるを得ない」と言います。僕は、「それでいいんじゃないでしょうか。事実を認めることからスタートしましょう」と言うようになりました。自己受容はその人の人生のプロセスの中で、何かのきっかけで結果として起こることで、誰かに勧められたり、それを目指してできるものではないと思います。
 
 石川県金沢市にある石川県教育センターとは、長いつきあいがありました。九州大学の村山正治先生の、「九重エンカウンターグループ」に、2回目に参加した時、当時教育センターの相談課長だった、関丕(せき ひろ)さんに会いました。グループの中での僕の発言にとても共鳴して「伊藤さん、大好き」と話しかけてくれました。そして、翌年度の石川県の新任教員の研修会の講師を依頼されました。関さんが定年退職の後、ふたりの相談課長が引き継いで、僕を講師として呼んで下さいました。その一人、徳田健一さんのことは以前のブログで書きました。新任教員の一日研修だけでなく、「いのちの電話」の研修やいろんなカウンセリング研修、金沢エンカウンターグループのファシリテーターなど、金沢の教育関係の人たちとの深いつきあいが続きました。
 そのありがたい出会いのきっかけとなった、関丕(せき ひろ)さんとそのお母さんとの話が本になり、映画化されました。吃音とは直接関係はないのですが、とても参考になりました。このように他の分野から学ぶことが多かったです。


  
パッチンして! おばあちゃん
                    伊藤伸二

パッチンしておばあちゃん 表紙 障害、病気や怪我、老いによる寝たきり。このような一般にマイナスと受け取られる状態になっている自己を受容して生きることは容易なことではない。
 寝たきりになった、おばあちゃん(母親)に
「あなたは、生きていることだけで、十分に意味があり、周囲の人々を幸せに出来るのだ」 娘の、関丕(せき ひろ)さんは、繰り返し、繰り返しそう伝えた。おばあちゃんは、「パッチン!」というまばたきで周りの人と心を通わせ、その看護に、100人を越える仲間達が代わる代わるかかわった。
光のなかの生と死 金沢で実際あった出来事が『光のなかの生と死』という本になり、今度は、『パッチンして! おばあちゃん』というアニメーション映画となって、今秋一般に公開されることになった。
 関さんは映画化にあたって、つぎのように語る。
 『「寝たきりになって、醜態をさらしたくない」と多くの人々は言われる。私は、それを聞く度に、もしかしたら、母も自分が醜態をさらし、まわりの人々からひんしゅくをかったのではないか、と不安に思ったことはなかっただろうか…と気になる。しかし、3年2か月間ベッドに横わっていた母の姿は、醜態どころか、仲間たちや私に、力強く大らかに生きていくことの大切さを教えてくれた。母に残された、唯一のコミュニケーションの機能であった目の開閉サイン「パッチン」によって、健康であった頃の母と同じくらいいや、それ以上に真実の交わりができた。その事実をこのアニメーション映画は、いろいろなエピソードをアレンジしたり、仲間達の創意工夫を細かい点にいたるまで見逃さずに取り上げて、しかもユーモラスに伝えてくれている』
パッチンしておばあちゃん映画ポスター どうして、このような真実のふれあいができたのだろうか。いろいろと条件はあるだろうが、関さん親子が自己受容の人であったことに注目し、自己受容について考えたい。
 吃音に悩んできた私達の自己受容は、障害(吃音)の受容から始まる。障害の受容は、吃音問題にとって最大のテーマだと言っていい。吃音に悩み、吃音を治したいと願ってセルフヘルプグループを訪れたどもる人が、「どう治すかではなく、どう生きるかだ」という考えを知る。それに反発する人がいる一方で、納得し、吃音を受容し、これまでの生き方を変える人がいる。これら自己受容の道を歩み始める人々にこれまでの人生を聞くと、次のような経験を持っていることが多い。
  吃音にとことん悩んだ経験
  一時でもとことん吃音を治す努力をした経験
  何らかの喪失体験、挫折休験から立ち直った経験
 ここでは、喪失体験、挫折体験から立ち直った経験のもつ意味について考えたい。
 仲のよい友との別れ、可愛がっていたペットの死、親との別れ、財産や職業、地位の喪失など、人は子どもの頃から、多かれ少なかれ様々な喪失体験をする。入試、スポーツ、仕事、恋愛などで挫折もある。
 これらの体験にどう対処してきたかが、障害の受容に大きく影響しているようだ。
 苦しんだり悩んだりすることを避けず、困難な場面から逃げず直面してきた人と、中途半端に悩み、中途半端な解決をしてきた人とでは、障害の受容の程度、それに至るまでのプロセスに大きな差があるようだ。
 このように考えながら、『光のなかの生と死』を読むと、関さん親子が、様々な喪失、挫折の体験と真正面に向き合い、ぶつかり、自分に正直に、自分を信じて、その時その時を生ききっておられるのがよく分かる。喪失、挫折への対処のこの体験があったからこそ自己を受容し、他者を受け入れることを、身につけてこられたのではないか。
 人間には将来、どのような試練や障害が待ち受けているか分からない。たとえば、自分自身が、あるいは身近な人が寝たきりになった時、どう対処できるか。
 困難な状況にどう対処するかの、日常の小さな体験の積み重ねが意味を持つのだろうと思う。
 吃音を通しての、障害の受容、自己受容は、さらに大きな障害と直面したとき、生きてくるに違いない。 1992.7.30


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/1/28