電話をしなければいけないときには、どもってでもする

 電話にまつわるエピソードは、たくさんあります。
 タイトル「もういーよ」が意外で、はじめ、電話に関することとは思いませんでした。読み進めていくと、どもる人にとって、電話は一番の関心事で、悩みの代表的なもののひとつだと改めて思いました。3年前の失敗は笑えるものではありません。電話でどもって笑われて嫌な思いをした、という類いのものではなく、どもるのが嫌さに電話をするのが遅れ、大変なことに発展してしまいます。筆者は、その失敗を繰り返さぬよう、その後は対応しています。
 そこへ、新入社員が登場します。マニュアルどおりの対応に苦笑いをしながら、新入社員を気遣うところにも、余裕とユーモアを感じさせる体験です。
 どもりながらも、電話をしなければならないときにはするという、社会人として当たり前のことを、電話に悩む多くのどもる人に、ぜひ読んでもらいたいと思います。自分史を書き続けるモチベーションとして、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトが制定している「ことば文学賞」への応募作品ならではの、ユーモアあふれる作品です。

       
もういーよ
                         椿谷 昌史

 「はい、○○社です。」
 僕が一番緊張する瞬間だ。本当は社内で事務処理を片付けたいのに、電話での会話を聞かれたくないのでいそいそと外出する。当初の予定より1時間早く会社を出た。そして、人気のない場所を探して携帯電話とにらめっこ。
 嫌だなぁ、電話したくないなあ。そんな事を考えながら、いつも同じ事を思い出す。
 あれは3年前の事だった。当時、難発が急にひどくなり、電話で話す最初の言葉が全く出なくなっていた時期だった。お昼過ぎに外出中の僕の携帯にメールが入った。
 『○○会社の××様から連絡を頂きたいとのことです。』
 そして人気のない場所を探して携帯の画面とにらめっこ。電話帳からその会社の番号を画面に出してしばらく考え込む。思い切って通話のボタンを押しても、すぐに停止のボタンを押す。いったい何回繰り返しただろう。場所を変えてもただ同じ事を繰り返した。まるで壊れたロボットのように。
 そうしているうちに夕方になった。明日にまで持ち越すのは絶対嫌だという気持ちが出てきた。この思いでやっと電話をかける事が出来た。

 内容は当時、猛威をふるっていたウィルスにパソコンが感染し、次々と大切なデータを破壊していった。僕と連絡のつかなかったユーザーは、他社に助けを求めて何とか夕方には復旧したとの事だった。思ってもみなかった大事にただただ驚いたが、この時の僕は被害が少なく復旧した事にほっとしていた。この後に起こることなど想像もしていなかった。

 それから数ヶ月後、保守契約の更新のハンコを貰いにその会社を訪問した。毎年の事なので、手続きは早々に済ませ、社長の奥さんと事務担当の方と家庭の話や子供の話などをするのがいつもの事だった。お客さんと一定の距離を取る僕にとってはめずらしい、仕事以上のつきあいのある数少ないお客さんだった。
 ただ、その日は違った。椅子に座るなり、お二人から「ごめんなさい」と切り出された。前のトラブルの事が問題になり、すぐにトラブル対応が可能なもっと大きな会社に保守をお願いした方がいいと会議で議題にあがったと説明してくれた。
 「何でも話せて頼みやすかったので、私達は反対したんですけど」
とフォローして頂きながら、ただ謝られるのをこちらも前回の対応の不手際を謝るしかなかった。
 客先を出たが、しばらく何も考えられなかった。ボーっと大切な物を失った喪失感のなか、あの時、電話出来ていたら…と何度もつぶやいて後悔した。
 この事を思い返すと電話をする勇気がわく。もう二度とあんな想いはしたくない。もう大事なものを失いたくない。

 僕は会社名を名乗るのが苦手だ。一番出にくい『オ』から始まるからだ。めずらしい苗字のおかげで会社名を名乗らなくても通じる事が多く、段々と会社名を名乗らなくなっていった。
 「パソコンの件で電話しました○○ですけど」
 「会社名をお願いします」
 「○○と言います」
 「会社名をお願いします」
 普段なら、会社名を名乗らなくても押し切ると大体は取り次いでくれるのに。今日はやけにしつこいなと思っていると、ふと気づいた。もうそんな時期かと。それは夏前にやってくる恐怖、研修を終えた新入社員が電話を取りはじめる時期だ。希望と正義感に溢れている新入社員は、何とか会社名を名乗らせようと何度も繰り返す。何度かやりとりを繰り返して、ついに諦めるしかなさそうだ。吐くまで許してもらえそうにない。ここは警察の取り調べか?
 決心して会社名を伝える。「えっーと、あの、あっ、あっ、あの、おっ、おっ、あの、おっ、オー△△の○○です」
 受話器の向こう側が凍りついてしまったようだ。電話越しに新入社員の動揺がはっきり分かった。『教えられた通りに会社名を聞いただけなのに。無理に聞き出して、悪いことをしてしまった』という感じだろうか? いつも通りにどもった僕は、受話器の向こうとは対照的に冷静に思う。『無理やり言わせるからやん。ほらな、そうなるやろ。』
 「しょ、少々、お待ち下さい」
 気丈にそう言ったが、担当者にちゃんと取りつげてるだろうか? 逆に心配してしまう。
 担当者との話が終わり電話を切ると、先ほどの新入社員の事を考える。
 『社会には聞かない方がいいこともあるんだよ。いい勉強をしたな、お嬢さん』


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/27