もう少し、水上さんが詳しく話して下さったことを紹介します。
 
 
3年間東京の家をはなれて、別府の国立病院にいた娘が、治療を終えて戻ってきました。2歳の時に、腹這いにはなれるが、這うこともできなかったのだが、3年たって小さな松葉杖を手にして戻ってきました。母親の骨を両足に移植して、50メートルくらいは、根気よく歩ける脚になって戻ってきたんです。
 娘は、生まれながらの脊椎損傷による障害児でした。両足先が死んでいる上、大小便に関係する神経がなかった。0歳で、脊椎の大手術を受け、4歳で、骨の手術を受け、子どもながら2度の大手術に耐え、自分で歩ける力を得たわけです。家の庭の芝生に出て、嬉々として歩く姿を見て、私は思わず涙ぐんでしまいました。世の中には、うちの娘のように、先天性の障害を背負っている子も多い。大病院に入院して、大手術を受ける費用もなく、生涯、歩けないままに、生を終わらねばならない子どもたくさんいる。そのことを考えると、娘は恵まれているわけですが、庭を歩いてみせる子の姿を見ていて、私は、教えられるものがありました。
 2歳のとき、別府へ出かける日、娘は、肩を丸めて、首が落ち、障害をこの子ひとりが、背中に背負ったような哀れな姿でした。それが3年後に見る姿はちがいます。背中はのびて、腹が出ているが、バランスがくずれていない。しっかりと腰がすわり、腹に何か抱いたような安定感が感じられました。両足先は、相変わらず萎えたままで、死んでいるはずですが、両足をひきずるための訓練を、3年間がんばってきた。死んだ足を助けるために、腹と腰が、立派に成育しているのです。
 3年間、別府に付き添ってきた妻は、
 「あの子は、もう障害を背負ってなんかいませんよ。抱いていますよ」
と言った。そうかもしれない。子は背中に障害を負う時代から、一歩前進して、障害を抱いて生きる人間になっていたのです。そう思うと、芝生の上を歩いてみせる娘は病人ではなかった。ひとりの健康人です。欠陥はあるが、ひとなみな歩みを続ける子だ。
 私はそのとき、障害は背負うものではなく、抱くものだなと考えました。抱くことが、生きることだと考えました。私は体には障害はないが、小さいときに親と別れて、僧院で暮らさねばならなかった。精神的には、ある意味で欠陥があった。僧院は禅宗の寺で、修行が厳しくて、毎日泣いてばかりいました。当時は、別れた母のことばかり考えていました。なぜ、寺に来て、坊主になんかならねばならなかったのか。不満と憎悪で、仏門の修行が身についたことはなかったのです。私は、この当時のことを思い出すと、今でも、背中を丸めて、いつも泣いていたことが頭に浮かびます、もし、あの当時、私に、娘のように、運命を抱く勇気があったら、破門もされないで、一人前の僧となり、どこかのお寺の住職になっていたかもしれないと悔やまれるのです。
 人間には、体の障害もあれば、心の障害もある。それぞれ、表面に現れない障害を早く抱く練習をした方が勝ちなのではないか。背中で受けずに腹で抱くことが、生きることの秘訣だと、障害の娘が私に教えてくれました。
「いつからあんなに腰がすわってきたのかね」
「手術に耐えてからですよ」
「手術後に変わったのか」
「死んでいる部分を、生きているところが助けるのよ。あの子の腰は、私たちよりも肉が硬いのよ。足の分を腰が働くんだから」
生きる日々 こちらです 足のつけ根のあたりまでの肉はもりあがっています。死んだ足先の部分は、やせ細って、ぶらぶらしているけれど、腰から腹、それに、松葉杖を脇にするので、肩の肉のもりあがりもある。よく見ると、松葉杖をつかんでいる掌は尋常なにぎりこぶしではない。
 「娘は、ようやく、自分の生命をとりもどしたのだ」と、私は思いました。涙ぐみながら見ている私の前を、子は、キャッキャッ言いながら歩き回っています。
 来年は小学校に入るが、歩行未熟の子を入学させてくれる学校の選択で、私たちは、また頭を悩ませねばならない。しかし、親の心配をよそに、子は、喜々として、一歩一歩歩いてみせる。
 「障害は腹に抱け」と娘が言っているようです。「背負ってちゃ、いつまでも病人なんだ」と私はひとりつぶやくのです。
          参考 『生きる日々 障害の子と父の断章』(ぶどう社)
 

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/24