明日からGo Toキャンペーンが始まるというのに、二転三転、確かな政策立案できないのは、どういうことなのでしょう。茶坊主政治の典型で、思いつきだけで事を進める。旅行業者も、国民も、振り回されています。先を見通せない政府の対策には本当に情けなくなります。
 Go Toキャンペーンには反対ですが、観光業界の窮乏は想像を絶するものでしょう。その支援には賛成ですが、時期が悪すぎます。コロナ感染拡大対策と両立させる政策立案には相当の検討が必要なのに、支援に哲学が感じられません。政府の政策には反対ですが、旅が大好きな僕は、観光業界のことが心配で、車で長野県・鹿教湯温泉に来ました。
 鹿教湯温泉には、傷ついた鹿が温泉につかってその傷を治したという、まあよくある話が言い伝えられています。全国のかなりの数の温泉に行っていますが、鹿教湯温泉は初めてです。一度は行ってみたいと思っていた温泉です。コロナのせいだけではないのかもしれませんが、少しさびれている気がしました。梅雨空が続き、すっきりと晴れることはないのですが、それでも、不思議と、傘の出番はありません。毎日の日課の食後のジョギングも、今日は雨で休めるかと少し期待するのですが、ちゃんと食後には雨はやんでいて、走ることができるのです。
無言館 昨日は、車で、近くの別所温泉まで行きました。町全体はこじんまりとしていて、別所温泉の方がにぎやかでした。観光案内所で聞いたとおりに町を巡り、おすすめの温泉にも入り、ホテルに戻ろうというときに、帰り道で「無言館」という看板をみつけました。
 「無言館」は、長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館です。樹木希林さんが亡くなられたとき、「無言館」とのつながりについて取り上げられていました。名前に惹かれて覚えていました。たまたま、通りかかり、看板をみつけたので、訪ねました。

    口をつぐめ、眸(め)をあけよ
  見えぬものを見、きこえぬ声をきくために  −窪島誠一郎−

 「無言館」館主 窪島誠一郎さんのあいさつを紹介します。

 戦争中、数多くの若い生命が戦地に駆り出され、戦場のツユと消えました。
 そうした中には、画家になることを一心に夢み、生きて帰って絵を描きたいと叫びながら死んでいった一群の画学生たちがおりました。当時の東京美術学校(現・東京藝術大学)、現在の武蔵野美術大学、多摩美術大学にわかれる前の帝国美術学校に在籍していた学生、あるいは独学によって絵を学んでいた前途ある絵描きの卵たちです。これらの学生たちは、厳しい飢餓と死の恐怖にさいなまれながらも、最後まで絵への情熱と、生きることへの希望をうしなわず、その思いを一冊のスケッチ帖、一枚の画布にきざんで死んでゆきました。そこには、絵筆を銃に替えて生きねばならなかったかれらの無念と、同時に、人間にとって絵を描くということがどれだけ至純な歓びにみちた行為であるかを物語る、ひたむきな生の軌跡があったと思います。
 この戦没画学生慰霊美術館「無言館」は、そうした画学生たちがのこした作品と、生前のかれらの青春の息吹きをつたえる数々の遺品を末永く保存、展示し、今を生きる私たちの精神の糧にしてゆきたいという希いをもとに、1997年5月1日「信濃デッサン館」の分館として開設されたものです。どうか、このささやかなる施設において、少しでも多くのかたがたの眼に、かれらの初々しい熱情にあふれた作品がふれることをねがってやみません。


 展示されている絵の多くは、華やかなものはなく、どちらかといえば暗く、地の底、水の底に、深く、重く沈殿しているように思いました。それでいて、生への思いが今にもほとばしり出るような力強さを感じました。絵に添えられている作者の紹介やエピソードからは、亡くなったひとりひとりに、生きていた、もっと生きたいと思っていた物語がありました。静かな美術館は、戦争は絶対にだめだと訴えています。

 2013年に、全国難聴言語障害教育研究協議会の全国大会・鹿児島大会の後、知覧特攻平和会館に行きました。特攻隊員として若い生命を絶たれてしまった無念さをひしひしと感じました。あどけない笑顔の写真が、より一層悲しみを増しました。無言館でも、知覧で感じたことと同じことを思いました。
 1950年に製作された、学徒兵の遺書を集めた遺稿集をもとにした映画「きけ、わだつみの声」を、小学校1年生くらいの時、小学校の校庭で、白い布をスクリーンにして見たのが僕の映画初体験です。その中のいくつかのシーンが、いまだに思い出されます。その時から僕は、「反戦少年」になりました。それは今も全く変わっていません。今、とんでもない世界のリーダーが複数いて、第三次世界大戦の危険も危惧されています。今の世界は、日本は、戦争の始まる前とよく似ていると、戦争の体験者が言います。繰り返してはいけないと強く思いました。
 これまで全く知らなかった場所「無言館」と、偶然出会えたことはうれしいことでした。そして、館主の窪島誠一郎さんが、小説家・水上勉さんの息子であったと知ったときは、驚きました。水上さんは、『五番町夕霧楼』『金閣炎上』で金閣寺に放火した吃音の若い僧・林養賢を取り上げたこともあって、仲間と会いに行ったことがあります。その時、いろいろと話して下さった話を、後日紹介したいと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/21