中学校を卒業して49年後の同窓会

 昨日、三重県津市のかざはやの里の紫陽花の写真を紹介しました。その時、吃音に悩んでいた学童期・思春期を過ごした津市のことを書きました。友人が小学校の時の写真を送ってきてくれたこともあって、以前ブログに書いた記事を思い出しました。
 故郷の津市での小中高生活は、いい思い出がなく、津市へ行くこともあまりありませんでした。
ところが、「週刊エコノミスト」に載った、芹沢俊介さんによる僕の本『新・吃音者宣言』の書評を見た同級生が声をかけてくれ、僕は同窓会に出かけていきました。書評が出たのは、2000年2月なので、その同級生がよく覚えていて、声をかけてくれたものだと感謝しています。
 この同窓会に行ってから、たびたび津市に行くようになりました。最近のゴールデンウィークは、恒例のように津市に出かけています。おもしろい記事だったので2009年2月17日のブログを再掲載します。

    
故郷へ錦を飾る

 古めかしい表現ですが、「故郷へ錦を飾った」ような感慨におそわれました。
 2009年2月22日、三重県津市立西橋内中学校1959年度卒業の第4回学年同窓会の時です。何度も、本やその他の文章にかいているように、吃音に深く悩んでいた私は、友達がいなくて、寂しい小学、中学、高校時代を送りました。いい教師と出会うことなく、親しい友とも出会うことなく、生きてきたと思っていたので、中学の同窓会など参加する気持ちはまったく起きることはありませんでした。私が参加しなくても、誰一人私の話題などでないと思っていました。それほど、吃音にがんじがらめになっていた、苦悩の時代でした。楽しかった思い出は一つもなく、苦しかった思いばかりがのこりましたが、それも和らぐと、小学・中学・高校時代のことは記憶がほとんど飛んでしまっていたのです。
 1999年「新・吃音者宣言」を出版しました。その書評を「週刊エコノミスト」(毎日新聞社に有名な評論家・芹沢俊介さんが書評で大きく取り上げて下さいました。それを読んだN君が「あの伊藤が本をかいているぞ」と津に住んでいるたくさんの仲間にファックスをして知らせてくれ、いちやく彼の仲間の中では、私はよみがえったのです。そして、第一回だったとおもうのですが、同窓会に来るようにと誘ってくれました。その後NHKの「にんげんゆうゆう」も多くの人が見てくれました。誘ってくれたものの、やはり私は乗り気ではありませんでした。でも、いつまでも過去にとらわれるより、一度過去に戻ってみようと、意を決して参加したのでした。その時、思いがけないことが起こりました。何人かが声を掛けてくれました。私は中学時代のみんなから忘れられた存在ではなかったのです。少し、いやだった過去がそんなに嫌なものではなくなりました。故郷は少し近くなりました。
 そして、今回久しぶりに、今度は私の意志で参加しようと思いました。
 306名の卒業生の中で、すでに20人以上が亡くなっています。所在不明者も40名ほどいます。私は、同窓会の正式な案内が届く前に、年賀状でも知らせてもらえるほどになっていました。今年は80名以上が参加しました。
 3時間の前半は、自由に席に着きました。私は開いているテーブルに座りましたが、顔をみても誰もわかりません。思い切って横に座っていた人の名前を聞きました。その人のことはすぐに思い出しました。小学校から同じで、とても怖い、腕力のある子だったからです。いじめられた記憶はないのですが、小学校時代一番怖い人でした。ひとことふたこと会話はかわしますが、話はつづきません。他の人も、みたような気がする程度で、まったく思い出せません。6クラスですから、同じクラスにならなかった人もいるわけですから、ところどころのテーブルに前回知り合った人は座っていますが、ビールをついでまわったりできない私は、ずっとそのテーブルに居続けました。80人以上いる中で、数人程度しか顔見知りはいません。その中では、動き回って挨拶にいけないのです。前回会っている人とも10年ちかくたつとほとんど忘れてしまっていたのです。我が家の一番近くに住んでいて、前の同窓会で挨拶したT君の顔を忘れていて、「49年ぶりやね」といったら、前の同窓会で会っているやないかと叱られました。
 普段でも、人の名前と顔はよほどのつきあいがないと忘れてしまいます。講演会などでお久しぶりと言われても思い出せないことはたびたびなので仕方がないことですが。
 ときどき、私に話しかけてくれる人も、ぽつんぽつんといたために、昔とても恐れていた孤独感は感じませんでした。自分から話しかけようと思えば話しかけることができる人が少なくも数人いることは安心でした。
 前半の終わりに校歌をみんなで歌ってから、後半は卒業のときのクラスで集まることになっていました。そうすれば、もっと知っている人がいるからもっと気が楽になるだろうと時間を待ちました。
 前半がおわり校歌をみんなで歌った後、突然今回の代表幹事が「ここに、全国的な規模で活躍している人がいるので紹介します。伊藤伸二君は吃音の専門家で、この世界ではエキスパートで、テレビに出たり、本もたくさん書いています。伊藤君にスピーチをしてもらいます」と壇上に私を招いてくれました。彼が週刊エコノミストのコピーや、「にんげんゆうゆう」のことをみんなに知らせてくれた人でした。11月の「きらっといきる」も旅先のキャンピングカーの中で、早朝の再放送で見た人でした。
 突然のことでしたが、うれしい気持ちになりました。
 「こんにちは、伊藤伸二です。おそらく皆さんのほとんどは私のことは忘れていると思います。どもりで悩み、音読や発表ができずに強い劣等感をもっていました。人に話しかけることができずに、ひとりぼっちでした。・・・・・どもりに悩んだおかげで、大学の教員になり講演や講義など人の前で話す仕事につきました。あのころのことを思うと信じられない気持ちです。・・・・」


同窓会にて


 わいわいがやがや、恩師の話の時も近くの人と話していた人が多かったのに、私の話をみんな真剣に、シーンとなって聞いてくれました。3月6日NHK教育テレビの「きらっといきる」に私の仲間がでて、どもりのことが取り上げられますと紹介すると、「もう一度、ゆっくりいってくれと」と声があがり、メモをとってくれました。
 私は、故郷の津市でことばの教室の教員対象に2回講演などで話したことがあります。しかし、その時は故郷へ錦を飾るというようなことは、みじんも感じませんでした。ところが、今回は、自分がひとりぼっちと思っていた、誰も私の存在など、気にもとめてくれないと思っていた。目立たない人間が、みんなの前でスピーチをしている。ひとりの恩師以外誰一人としてスピーチをする人はいません。ただひとり、みんなの前でスピーチをし、大きな拍手で壇上を降りたとき、ひとつの決着がついたと思いました。
 テーブルには同じクラスだった人がいます。15名ほどの中でふたりしか思い出せません。女性がひとり「伸二君のことよく覚えているよ。目のまん丸のかわいい子だった。友達がいなかったのなら、話しかければよかった」と言ってくれました。何人かがよく覚えているぞと話に来てくれました。
 二次会はもうみんなと知り合いになれ、楽しいひとときを過ごしました。
 こんな粋なはからいをしてくれた、幹事代表N君にこころから感謝したのでした。 わが故郷はまた一段と近くなりました。
 その日は、興奮していたのかなかなか寝付けませんでした。
      2009年2月17日           伊藤伸二


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/26