1996年10月25日の大阪吃音教室の講座の続きを紹介します。

坪内寿夫さん どんなにどもっていても、商売のために喋っていったことが、経営にも人間としても成功した人
 
【大阪吃音教室だより】
 がらりと変わりますが、坪内寿夫という人、知ってますか。吃音と闘った人の中に入りますが、吃音を言語訓練などの治療法で治そうとは一切していません。持ち味の強烈なエネルギーで、精一杯生きる内に、吃音の方が「負けました」と逃げていったのかもしれません。一時とても有名だった経営者です。
 四国の松山の映画館主から、世界一の造船王といわれた人ですが、会社の再建王とも言われていました。銀行、ホテル、海運業など、倒産して再建をもちこまれた100社ほどを再建させたのですが、とりわけ佐世保重工の再建が有名です。この彼が、すごい吃音だったというのです。倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、一時はマスコミによって「再建王」、また船舶・造船・ドック会社を多数抱えたことから「船舶王」、四国を中心としたグループ形態から「四国の大将」とも称されました。

坪内寿夫 経営とはこうするんや 彼の自伝ではないのですが、内藤国夫という人が『経営とはこうするんや』でこう書いています。

 『坪内君はね、若い時は大変なドモリで、人前では話もようできんかった。だけど本当に感心するほどの努力家で、いつの間にかドモリを克服しよった。坪内ちゅうのは、そういう男ぞ、とよく人にも言うんです」

 坪内寿夫とは義理の兄弟、来島どっく専務・石水煌三が、ドモリであったことを肯定する。

 『昭和35・6年までは、話をするのに、普通の人の3倍はかかりました。私らが船の注文に歩いて、来島どっくです言うても、“来島って、どこにある島や”と相手にされなかった時代です。あれからわずかに20余年。坪内企業グループは信じられんほどに大きくなったけど、それ以上に坪内寿夫個人の方がより大きく成長しています。ドモリの克服なんて小さなことです』
      『奇跡を呼ぶ男 坪内寿夫 経営とはこうするんや』内藤国夫 講談社

 経営者にはどもる人がいっぱいいます。ベンツで有名なヤナセ自動車の社長が、どもりで悩んだことを、日本経済新聞の『私の履歴書』で書いています。
 どもりという辛さや劣等感をバネにして必死に生き、商売のために吃ってでも喋っていったことが経営そのものを成功させたし、人間としても成功させたということになるのでしょう。会社の経営者にどもる人はたくさんいるようです。

 
間直之助さん どもりのために自分の生き方を変えた人

 間直之助さんのことは、5月の初めのブログに何回か書いています。吃音と闘うことなく、自分の生き方を変えた人です。以前書いたものとダブルところがあるかもしれませんが、大阪吃音教室で話したことを紹介します。経営者として生きることを運命づけられていたが、別の違う生き方を選んだ人です。

 【大阪吃音教室だより】
 これはあまり知らないと思いますが、間組って知ってますか。大手の建設会社ですが、そこの御曹司として生まれた彼は、将来社長として経営陣として生きることを、本来運命づけられた人なんですが、彼はすごいどもりであった。彼は、間直之助といいます。建設会社という、一般の会社よりは荒っぽい感じがしますが、どもりで悩んで苦しんだ彼には、性に合わない。やさしさと弱さをいっぱい持っている人です。大きな建設会社を継ぐなんてことは自分にはできないと、自分の生き方を変えました。
 その彼のことを遠藤周作が『彼の生き方』という本で書いています。遠藤周作が書いた小説ですが、彼の自伝とも言えると思います。一平という名前ででてきます。
 一平(間直之助)は、試験を受けるんですが、面接試験のときにすごくどもるんです。

 『受験生の二人が口頭試問を受ける部屋にすいこまれた後、残った者はやっと小声で話し始めた。「胸がどきどきしよるなあ。どんな質問しよるんやろか。まさか、これ以上、学科のことを訊ねへんやろうな」、一平はどもりを隠すため、首を振って返事に変えた。・・・ひとりの試験官が質問する間、他の連中は黙って一平をみつめていた。「お、お、お」一平は吃った。「お、黄疸に、か、か、かかりました」「あなたは吃るのですか」と別の試験官が薄笑いを浮かべた。首を必死にのばして発音しようとする一平の姿がおかしかったのであろう。「は、はい」「困ったね。それで授業を受けるのに差し支え、ありませんか」「あ、あ、ありません。だ、だ、大…大丈夫です」「君は大学に行けば何科に進みたいですか」「ま、まだ、き、決めていません」』
 
 彼は、建設会社の経営なんてできっこないと考えて、猿の研究に入りました。東京大学理学部で動物学を、京都大学文学部で哲学を専攻した後、父親が作った建設会社「間組」入社しますが、日本モンキーセンターの終身研究員となりニホンザルの研究に余生を捧げました。日本猿の餌付けの草分け的な存在です。彼が猿と共に生きる決心をする最後のエピソードなんですが、自分が餌付けしている猿を撃ったり、つかまえようとしたりする人たちに対して彼はこういうことを言って、猿の世界に入っていきます。

 『「さ、猿が、あんたたちに、ど、どんな悪いことをしたというんや。さ、猿が人間に、ど、どんな害を、あ、与えたというんや。さ、猿はものが言えん。人間のようにものが言えん。し、しかし、ものが言えんでも、猿かて…か、悲しみはあるんや。さ、猿かて・・・悲しみはあるんや。ぼ、ぼくが、つ、つれていってやるさかい。ボスのかわりに、ぼ、ぼくが、つれていってやるさかい、も、もう人間の手の、と、とどかん場所に行こ。人間の汚れが、ち、近づかぬ場所に行こ」

 吃音をなんとか治そうとか克服しようとかする人がいる反面、自分の弱さの中で、自分を生かそうと、持って生まれた自分の宿命というか、大きな会社の経営陣の道を捨て、自分の持っている人格というか特性の方に生かすという生き方があります。
 私は、吃音の著名人の中では、彼が一番好きです。
    (NPO法人大阪スタタリングプロジェクト機関紙「新生」1996年12月号より)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 20200/6/20