どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生  (5)

 文福さんは、一週間前の大阪吃音教室に、飛び入りで参加されたのですが、参加者のみんなが疑問に思ったのが、かなりどもる文福さんが、なぜ、落語の世界に入ったのかということでした。僕のことで言えば、社会人になって就職している自分を想像できず、仕事ができるかどうか、不安をもっていました。だから、文福さんがなぜ、落語の世界に入ったのかは、とても興味のあることでした。今回はその話が中心になります。
 前回の続きです。


伊藤 今こうして僕と話している間、文福さんはようどもりはりますが、子どもの頃のどもりってどんな状態だったんですか。

文福 僕ね、いつからどもったかという意識はあんまりないんです。赤面症というか対人恐怖症というか、あんまり喋れへんかった子ですね。僕は3月31日生まれで、一番早行きで、体も小さかった。生まれた時逆子やったし、健康は健康やったけど、小さかったりして、あかんたれというか、小学校1年まではあかんたれだったですね。人前に行くと、まず顔がガーと赤くなってよう喋らんかった。結局学校嫌やったんでしょうね。運動会も嫌やったし、学芸会も嫌やった。小学校のときの思い出は一個もええのが浮かんできません。不思議やけど。トラウマとまではいかんけど。

伊藤 特にからかわれたり、いじめられたりということはなかったんですか。

 相撲が僕を救ってくれた

文福 まあ、いじめられたことはそうなかったんですけど。うちの中学校は相撲部が強くて、1年先輩に相撲部の子が、無理やりからだが小さかったのに、相撲部に引っ張られたんです。僕は小学校のときは走るのも遅いとかソフトボールもよう投げんとか、運動神経ももひとつやし、勉強もできんし。ところが、嫌だったけれど相撲部に入った。相撲そのものは好きで、よくテレビで見てましたから、イメージトレーニングになってたのか、勝つことが出来たんですね。それが自信になった。嫌やったけど、辞めないで、3年間続けて、3年のとき郡の大会で5勝1敗で準優勝しました。それでまた、ものすごい自信がついた。
 主将だと、全校生徒の前で成績発表会がある。普通やったら例えば「野球部ですけど、みなさんご声援ありがとうございました」とか「がんばります」とか言う。ところが僕は、「あのあの、あのあの、4対1とか」それだけ言っただけで後は何も言わんかったです。そやけど、何か自信がついた。その勢いで、高校へ入ったときは、レスリング部と柔道部からひっぱられた。これも嫌やったけども、結局柔道部に入って、辞めないで3年間やって、一応黒帯になった。だから中学校、高校は楽しい思い出がある。高校になったらもう楽しかったです。それでもどもってました。
 例えば柔道をやっていて、先輩と話していて、「先輩、あのあのあの・・・」と言うと、「おい、誰か通訳してくれ」と言われる。むやみにけんかなんかしませんよ、その先輩を柔道の稽古の時にびゅーんと投げ飛ばす。俺をばかにした奴はきっちり柔道でしめあげる。だんだん身体も大きくなってきたし、相撲にものめりこんでいった。相撲が僕を救ってくれたんですね。
 就職で大阪へ行くときは、落語のことなんか考えてません。その頃、万博の頃ですが、「仁鶴、可朝、三枝」が人気で、和歌山の田舎でも落語の研究会ができたくらいです。ただ大阪へ行きたい。絵が好きだったから。大日本印刷の会社に入って、印刷の仕事をしてました。

 落語界に入る

文福 ところが、その当時、大阪へ来たら、落語がブームやから、生で見に行った。生で見に行ったらやっぱりお客さんの若い層の熱気、今ではそうでもないけれど、いっぺん聞いたらまた聞きたいなあと、極端な話、5,6分落語を聞いたら、楽屋に行って、「師匠、弟子にして下さい」と言いに行く人がいたくらいです。僕もそのムードにのせられて、入ってしまった。ところが後でしまったと思ったんですが、同期の連中、鶴瓶君、仁福君、二代目の森々福郎君らは、みんな落語研究会でそれなりにやってきた人ばかりなんです。学生の頃からのばりばりです。みんなは、俺はプロで力を試すんだとか、俺はおもろいから芸人になるんだと。僕の場合は、どもりでも、人前で喋れるようになるかな、小文枝師匠の所に行ったら喋れるようになるかな、ですもんね。売れたいとかテレビに出たいとか、有名になりたいとか、全然あらへん。人前に出て、喋れるようになれればいいという、まあ喋り方教室みたいなもんやね。

伊藤 柔道で自信がついたけれど、その自信はどもりにはそれほど大きな影響はなかったんですか?

文福 なかったですね。でも、どもっても人前に出ていくという自信はありました。大日本印刷を辞めるときに、みんな心配してくれた。
 「のぼる、お前絶対無理ちゃうか。お前、どもるやんか」今でもつきあいさせてもらってるけど。ほんまに心配したみたいやね。だから、誰にも相談せずに落語の世界に入った。何年かたって、「オオあいつちゃうか」と知って驚いていました。親は知ってたけど、親戚には言わなかった。

伊藤 ただ人前で喋れるようになればいい。仕事にならなくてもよかったんですか。お金を稼ぐという。

文福 まあ、なった以上はね、人前で喋って落語家になって、笑ってもらいたい。でも、お金を稼ぐとまでは思わなかったですが、落語家になってからですね、なったからには、なんとかしてがんばっていかないかんなあとは思いました。3年間、師匠のとこで修行して、桂文福として、だんだん師匠のもとを離れて、年もとり、結婚もして子も生まれ生活がかかってくる。なんとかがんばらあかん。その時に、宴会に行ったりすると、宴会の席で、河内音頭なんか好きやったから、音頭なんか歌うと、ことばはなんぼでもぱーと出る。河内音頭をやったのはどもりを隠すためというか、宴席で場をもたすために、手拍子や節なんかやったりするとなんぼでも声が出る。結局どもりやったから、河内音頭をやるという、特徴のある落語家になれたんでしょうね。相撲甚句もやりますしね。
 普通に喋れたら、恐らく平凡な、そつのない落語をしとるでしょうね。自分がどもりやったおかげで、変わっとんなあ、ユニークやなあと言われるようになった。そういう点ではどもりでよかったと今では思います。
     「スタタリング・ナウ」2001年2月17日、NO.78


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/12