應典院との不思議なつながり 2

應典院 夜桜 應典院での最後の大阪吃音教室を終え、4月から新しい会場で始まるはずの大阪吃音教室は、休会が続いています。
 USBメモリーを整理していたら、「應典院原稿」という名前で保存してある文章がみつかりました。應典院から依頼され、ニュースレター「サリュ」に掲載するために書いたものではないかなと思うのですが、確かではありません。いつ書いたのかもはっきりしません。でも、内容は、前回のブログのつづきとしては、ぴったりです。何に掲載されたのか、いつ書いたのか、明らかでありませんが、僕の書いたものには違いないようです。紹介します。


 
「東京にひとりぼっちの若者をなくそう」
 第一回東京若者フェスティバル実行委員会には、労働者、学生の枠を超え、さまざまな領域で活動するリーダーが集まった。不登校や引きこもりということばの芽生えすらなかった時代にあっても、ひとりひとりの若者は孤独であった。特に、集団就職で地方から大都会で生活する若者の孤独は深刻で、集団就職者の「若い根っこの会は」社会現象としても取り上げられるほどだった。一方、公害訴訟や公害阻止運動に取り組む人、障害運動に取り組む人、学習運動に取り組む人、反戦運動に取り組んできたグループのリーダーたちも、企業や政府の大きな壁の前には、異端者であり少数派であった。それでも仲間と連帯して活動することの力と喜びを知った人々は、「ひとりぼっちをなくそう」とたちあがったのだった。第一回若者フェスティバルの実行委員会の中には、高度経済成長の戦艦の中には乗り遅れたものの、人と人との結びつきの中で孤独から解放され、私たちのひとりひとりの力は小さくとも仲間が集まれば何かができるかもしれないと明るい社会をつくることに楽観的に考えていた人々でもあった。
 1965年、私は、私と同じように吃音に悩む人々と出会い、救われた。そして、どもる人のセルフヘルプグループをつくり、活動を始めた。
 月日は流れ、会社のために豊かな生活のためにというこれまで多くの人が信じてきたひとつの価値観は崩れ、壊れかけていた共同体は跡形もなく消失した。目標を失い、若者は戸惑い、立ち止まった。ひとりひとりがばらばらになり、自分の殻に閉じこもり、仲間を求める力さえ失った。からだが、心が、ことばが、ひとりひとりの中に閉じこもった。不登校や引きこもりのあまりの数の多さに国さえも慌て始めたほどだ。
 そのような中、大阪セルフヘルプ支援センターでは、病気や障害だけでなく、様々な生きづらさを抱え、ひとりで悩んでいる人と人とを結びつける、セルフヘルプグループ活動のさらにはグループとグループを結びつける活動を始めた。
 その活動の中で知り合った読売新聞・森川明義記者が「伊藤さんが興味を持ちそうなお坊さんに取材に行くよ」と話してくれた。急なことだったが、同行をお願いした。應典院の秋田光彦住職との初めての出逢いだった。森川記者のインタビューに秋田さんがこれまでの應典院の活動、これからの展望を淡々と、しかし熱く語っているそばにいて、私もこの應典院の輪の中にいつの日か入っていくかもしれないという予感がしていた。
 そのときは意外に早く訪れた。独自のことばからだ観をもち、全国的にからだとことばのレッスンを展開している「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」を私が主催して大阪で定期的に開くことになったからだ。人が人を恐れ、人とのふれあいを拒否していくこの時代は、じかにからだとからだが触れ合うこと、ことばに触れていく、自らのことばとからだを取り戻そうとする竹内敏晴・からだとことばのレッスンを私が主催し、定期レッスンを大阪で開くとき、私には應典院を会場にすることしか思い浮かばなかった。應典院でレッスンを始める旗揚げとしての講演会を應典院寺町倶楽部の「寺子屋トーク」として組み込まれ、吹雪のように雪が舞う寒い悪天候にもかかわらず、150名という人々が本堂ホールに集まったとき、現代を生きる人々は自分のことばやからだ、そして他者と出会うことを求めているのだということを確信した。
 定期レッスンには、九州や関東地方からも人が集まり、3月の劇の上演を主体にした公開レッスンには遠く北海道からかけつける人もいた。こうして、應典院で開かれる定例レッスンは、定着していったのだった。
 一方、私は寺町倶楽部の理事となり、コモンズフェスタや寺子屋トークなどの企画にも加わらせていただいた。自分の興味がある自分の好きなことを何でもしていい、應典院を舞台に人々が集まり、何かと出逢うきっかけとなればいい。40年以上も前の、若者フェスティバルと名づけた活動は2年しか続かなかった。ある会場を設定して年に一度集まるというものでは若者が出会う場とはなり得なかったのだ。
 應典院はどっしりと天王寺の下寺町にいつもある。そこへ行けば、何かと出会える。興味をもったとき、應典院に行けばいいし、興味がなくともその空間を楽しみに行けばいい。そうすれば、思いがけない、生涯をかけて取り組むものに出会えるかもしれない。私が実際にそうだった。葬式仏教にどっぷりとつかる仏教や寺が嫌いな私は、興味を引かれながらも、仏教からは遠ざかっていた。しかし、毎月毎月、應典院という場に通い続ける中で、自然にこれまで本棚の隅に追いやられていた法然や親鸞の本に手をだすようになった。「風狂に生きる」の講演会での町田宋鳳さんの講演は、おもしろかったし、今は定期的にダンマパダを読むの学習会にも参加している。仏教が私にとって身近なものとなったのは、應典院という場に行き続けてきたおかげである。不登校や引きこもりの青年がふと應典院に立ち寄り、何かと出会えたらいいなあと思う。
 「東京にひとりぼっちの若者をなくそうと」大上段に構えた私たちが行ったような集会には今どきの若者は目もくれなだろう。しかし、好きな演劇を若者たちが一所懸命取り組んでいる。独自のアートを表現する人がいる。映画の試写会やトークの会がある。若者が興味を抱く企画が次々と持ち込まれ、それが実現していく。
 それらにふと立ち寄った時の應典院の場の力が少しでも若者たちに触れて行ってくれたら、うれしい。年間3万人もの若者が出入りする、出逢う場が應典院という場のスピリチュアリティがその人を静かに包み込み、何か新しいことと出逢う、新しい出逢いが起こっているかもしれない。私の活動しているどもる人のセルフヘルプグループのミーティング、「大阪吃音教室」のこれまで使っていた大阪市の会場が使えなくなった。金曜日の同じ時間、同じ場所でミーティングが続けられ、参加できない人たちにとってもミーティング会場、アピオ大阪がどもる人にとってある種心のふるさとになっていた。参加しなくてもあそこに今この時間、仲間が集まっていると思うだけで力がわいてくるという人がいた。その使い慣れた会場が使えなくなると聞いたとき、私はこれはピンチだが、大きなチャンスだと思った。竹内敏晴からだとことばのレッスンと同じように、應典院を会場にすれば、大勢の若者たちが集まる場にすれば、その場を通して吃音のテーマとして集まる人々が演劇や様々なアーツに、そして何よりも仏教に興味をもってくれるようになれば、私たちが提唱する、どもりをどう治すかではなく、吃音と共に生きるということがさらに深く伝わるのではないかと思った。それは、吃音に悩む人々にとって大きな力となると思ったからだ。
 2008年4月、應典院との新たな出逢いが始まる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/4/27