第7回 吃音キャンプOKAYAMA 保護者からの質問

 最後のセッションは、保護者から出された質問に答えました。その続きです。


吃音は治るのは難しいということだけれど、伊藤さんが知っている人で、治った人はいますか。


 いい質問ですね。54年間も、どもる人のセルフヘルプグループで活動し、世界大会に参加し、30年間も吃音親子サマーキャンプをし、その他に、岡山や、島根、沖縄、群馬でもキャンプに参加しています。おそらく世界で一番、僕がどもる子どもとどもる人に出会っているでしょう。7000人、8000人、ひょっとしたら1万人くらいの人と直接会話をしているかもしれません。その中で、僕の印象でしかないけれども、どもる訓練を一生懸命して、その結果、治ったという人には会ったことがありません。知らない間にしゃべりやすくなっていた、改善されたという話はたくさん聞きます。僕自身も、昔から比べれば、ずいぶんしゃべりやすくなっています。だから、吃音は、否定したり避けたり逃げたりしないで、つらくても、ストレスのあるところでも、緊張する場面でも、あえて挑戦して話していくうちに、変わっていくと言えると、僕は思います。日本では、数人程度ですが、変わらなかった人もいます。世界大会で出会った人たちの中に、変わらなかった人はいっぱいいましたが。その人たちに共通するのは、ほぼ間違いなく、常に治療を受けている人たちです。アメリカやオーストラリアなどには、身近なところにセラピーがあり、セラピストがいます。だから、困ったことがあったらすぐ治療、訓練となるのでしょう。ところが、日本は、それほど訓練機関がないので、自分なりにサバイバルしていかなければならない。つらくても、緊張する場面でも、話をしていくということを繰り返しながら、しのいで、場慣れをしていくことによって、あれだけ電話でどもっていたのに、いつの間にか電話することが得意になったという人はいっぱいいます。発表とか、大勢の前で話をするということは、みんな上達していきます。
 今年の夏、三重県津市で開催した臨床家のための吃音講習会で、佐々木和子さんという聾学校の教員だった人に、僕がインタビューしました。彼女は、伊藤伸二がいるというだけの理由で、島根県から大阪教育大学に来ました。大阪教育大学は、教員養成大学なので、昔は、ほぼ100%が教員になったけれど、彼女は教師になるつもりはまったくなかった。彼女は、これだけどもる人間は、将来、仕事には就けないので、家事手伝いをすることになるだろうと思っていた。島根県の松江市のことばの教室で、大石益男さんに出会って、話を聞いてもらっているときに、『人間とコミュニケーション』という、僕が一番最初に出した、海外の研究者の翻訳書を読んだ。その本の後書きに、この本は、大阪教育大学で作ったと書いてあった。それだけを頼りに、どもっている自分の居場所があるだろうと思って彼女は大阪教育大学に来ました。最初、出会ったとき、本当にびっくりしました。こんなにどもる女性に会ったのは、初めてです。その後も、彼女ほどどもる人に会ったことがないくらい、どもっていました。本人は、全く教員になるつもりはなかった。でも、4年間、僕たちといろんな経験をする中で、吃音に対する否定的な感情がなくなり、教育実習に行ったときに、それなりに子どもたちが聞いてくれた経験もあって、教員になろうと思って、島根県の教員採用試験を受けました。学科試験に合格し、後は、顔合わせ程度の面接で、彼女はものすごくどもった。島根県の教育委員会は、これだけどもる人間がどうして教師になりたいと思うのか、実際に教師としてやっていけるのか、と思ったのでしょう。大阪教育大学にも、教育実習先の大阪教育大学付属小学校の担当教員にも問い合わせが来ました。僕たちは、彼女のような、吃音に苦しみながらそれなりにしっかりと生きてきた人間が教育には必要だ、彼女は面接ですごくどもったかもしれないし、大人との会話ではどもるかもしれないけれども、教育実習では子どもたちと丁寧にゆっくりと自分のペースで授業をし、もちろんどもるけれども、面接のときのような状態ではないから、ぜひ彼女を採用してほしいと言いました。島根県は、それを聞いて、しぶしぶ彼女を採用しました。その後、彼女がどうなっているのかなあと気にはなっていたのですが、21年前に島根県で吃音キャンプが開かれることになり、そのとき、彼女に久しぶりに会いました。本当にびっくりしました。あれだけどもっていた彼女が、ほとんどどもっていませんでした。何か訓練でもしたのかと聞くと、そうではなく、教師として話さなければならないから、どもりながらでも話をしていく中で、知らず知らずのうちに変わっていったとのことでした。そういうふうに変わっていった例はいっぱいあります。
 一方、ジョン・ステグルスというオーストラリア人の僕の親友ですが、彼は、「わーたーしーのー」ととてもゆっくりのしゃべり方をします。本当にまったりとした話し方をずっとしています。僕たちはどもる仲間同士なのに、こんなしゃべりかたをずっとしているんです。不自然で気持ちが悪いから、彼に、「君は普段でもこんなしゃべり方をしているのか」と聞いたら、「家族の前では仮面を脱いで、どもっても平気でしゃべれる。でも、一歩家を出ると、仮面をかぶって、こんなしゃべり方になる。言語聴覚士に教えてもらったこのゆっくりとした話し方で、どもらないということが身についてしまったので、今さら、仮面を脱ぐことができない」と言いました。そういう人もいます。
 今、思い出しましたが、日本にもいました。1986年の世界大会を開く前の年、九州の能古島で全国大会を開いたときに、熊本から来た70歳近い老人が発言しました。「みーなーさーんーのーかーんーがーえーかーたーはーまーちーがっーてーいーまーすー。どーもーりーはーなーおーりーまーすー」と、こんなしゃべり方をした。話を聞いたら、朝起きたら必ず発声練習をする。仕事が終わったら、山に登ってまた発声練習をする。1日に少なくとも1時間は訓練をする。そのあげくが、「みーなーさーんー」と言うしゃべり方なんですね。それを聞いて、そのとき参加していた100人近くの人たちは、そんな、個性のない、まったりとした、不自然なしゃべり方をするよりも、どもってしゃべっている方がよっぽどましだと発言して、総スカンをくったことがあります。
 そういうゆっくりとした話し方を続けることができるのか、これを続ける意味があるのかと考えたとき、僕は、どもりながら、緊張する場面でも逃げずに話していきたいと思います。すると、自然に変わっていく。そんな話はたくさん聞いていますが、治った人というのは聞いたことがありません。
 僕の大好きな、片岡仁左衛門という人間国宝の歌舞伎役者がいます。歌舞伎に、近松門左衛門作の、どもりの絵師又平と、その妻お徳との夫婦愛を描いた「傾城反魂香」という演目があります。又平がものすごくどもるんです。今度、大阪で、文楽でその演目をするので楽しみにしているんですが。中村吉右衛門、中村鴈治郎、片岡仁左衛門が、主人公の又平の役をした歌舞伎を実際に見ました。その片岡仁左衛門さんは、歌舞伎俳優の家に生まれて、歌舞伎俳優になることが宿命づけられている。けれども、彼は、子どものころから、どもっていた。芸事で発声練習などいろんなことをしながら、片岡孝夫という名前で映画にも出るようになり、舞台でも主演するようになった。でも、NHKの大河ドラマに出演したとき、せりふがどうしても言えなくて、中村錦之助などたくさん大御所がいる中で、NGの連続だったことを、本人が語っています。
 女優の木の実ナナも、あれだけ主演女優をしながら、渥美清に「おにいちゃん」と呼びかけるせりふが言えなくて、撮影が2日間ストップするという経験をしています。職業として、映画俳優や歌舞伎俳優になり、日常的に言語訓練をしても、吃音は残るということです。歌舞伎のせりふの独特の節回しになると、舞台ではどもらないが、舞台を降りるとそれなりにどもる。だから、完全に跡形もなく消えてしまうということは、あり得ないんじゃないでしょうか。
 でも、教師や俳優、アナウンサーなど、話すことの多い仕事をしているうちに、だんだんとしゃべれるようになるということはあります。だから、それを治ったといえるのかもしれません。アナウンサーの小倉智昭さんは、どもりは治らないとはっきりと言っています。周りから見たら、治ったかのように見えているけれども、やっぱり吃音という意識はあるし、友だちのところに電話をかけるときにはどもる。僕が、人前でしゃべるときは比較的どもらなくなったのは、大学の教員として、講義や講演をすることを重ねていく中で、それなりに話すときのテンポやスピード、間などが自然に身についたからだと思います。仕事を通して、自分のことばを獲得していくものだと思います。訓練をしてなんとかしようとしても、おそらく吃音は改善していかないだろうと思います。練習はしない方がいい。それより、自分が何をしたいのか、何をするのかという人生の目標を早く決めて、そのための努力をする中で、ことばは変わっていくと、僕は信じています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/11/15