吃音講演会・相談会inにいがた
  〜懐かしい出会い、新しい出会い〜


 きつ音セルフにいがたの設立満4年を迎えた家田さんの思いを紹介しました。家田さんと一緒に、その設立に関わり、活動を共にしているのが、川瀬さんです。
 先日の吃音講演会・相談会にも、もちろん参加されていました。川瀬さんにお会いするのは初めてです。初めてですが、そんなことを感じさせない、同じにおいのする親しみを感じました。川瀬さんも、「かおなじみ」というニュースレターの巻頭言に、文章を書いておられます。揺れ動きながら、この道を行くと覚悟を決める少数派の潔さを感じさせる文章です。

 講演・相談会が終わってからの懇親会には、家田さんと川瀬さんの他に2名が参加しました。一人は今回初めてお会いする人でしたが、もうひとりの小浦方さんとは、懐かしい再会でした。小浦方さんのことは、珍しい名前だということもあって、よく覚えています。小浦方さんは、「鉢伏の大会、よかった。あそこで、そのままの自分、どもる自分を初めて認めてもらえたように感じた。楽しかった」と何度も繰り返しました。鉢伏の大会というのは、第8回の言友会の全国大会で、兵庫県の山奥の鉢伏高原で開催した、「吃音を治す努力の否定」を出すための議論をする大会でした。思い切った問題提起をするために、あえて交通の不便なところで、それでも参加したくれる人たちと深い議論がしたいと考えて選んだ会場でした。あのときの出会いがあるから、今の自分があると断言された小浦方さんのことばを聞いて、僕は、「吃音をそのままに認めて生きる」ことをブレずに、ひとつの道を歩き続けてきてよかったなあと思いました。
 初めての出会い、懐かしい出会いの入り交じった新潟での講演会でした。

 川瀬さんの巻頭言を紹介します。

   
一つの過ぎ去りし後悔
                              川瀬裕夫

 私には今でも悔いの残っている出来事がある。それは26年前の父の死に拘っている。父は70歳で亡くなったが、その通夜の席と葬儀での参列者への挨拶が、そのとき私が立ち向かわなければならない難問であった。
 父の仕事柄のせいか、通夜も葬儀も、参拝者はかなりの人数であった。私はその頃吃音の一番きつい時期でとても人前で挨拶などできないであろうと考えていた。人前で話す自信が全くなかったのである。
 通夜振る舞いの時のことだ。私が一人一人に飲み物を注ぎ回っていたとき、客席からひそひそ話が聞こえてきた。父は私の吃音についてかなり悩んでいて、同僚に私の吃音のことを話していたらしい。私が近づくと急に話が止まった。そのとき私はにわかに居たたまれない気持ちに襲われた。
 そして一夜が明け、葬儀が行われた。葬儀の挨拶は結局、従兄弟に代役を頼み、彼は快く引き受けてくれ、立派な挨拶をしてくれた。それ故に、私は自分がとても歯がゆかったし、情けなかった。自分で自分が許せなかった。しかしどうしようもなかった。全てが終わった後に近親者のみ食事を共にしたのだが、その席上で突然母方の叔父が、「挨拶に代役を立てたのはまずかったなあ」と、聞こえよがしに言っていたのには閉口した。その叔父をいっときは恨みもした。このことで私は二重に落ちこんだものである。この二つの出来事が、今も苦い気持ちとして残っている。
 そしてその葬儀の晩のことである。仏壇を置いてある部屋、仏間の梁に父の遺影が掛かっていた。その父の顔が私への怒りにも似た顔に私には感じられた。父の気持ちが乗り移ったかのようであった。あれは父自身からの私へのメッセージだったのだろうか?「不甲斐ない男になるなよ!」という意味合いの。不思議なことにその時は実際そのように見えたのである。そして恐れにも似た感情を覚えたものであった。
 それから数年後、身内の親戚だけで7回忌を行ったが、そのときはようやく自分で納得できる挨拶をすることができた。その頃は自分の吃音は自分から吹っ切れていたのだろう。葬儀のときに代役で挨拶してくれた従兄弟も、「とても良い挨拶だった」と言ってくれた。
 今にして思うのだが、死者は死者として存在し、今も生き続けているのではないか、と。そして今の私は、あの頃とは違い、吃音を活かしつつ前向きに生きる覚悟ができている。過去の悔いを活かすことができたのかもしれない。

    「かおなじみ」 きつ音セルフ新潟 2019年7月15日 第45〜46合同号