どもれる体になったことと、非認知能力

 どもりは治さなければならない、僕のその思いは、ますます強くなりました。大阪で新聞配達をしながら2浪生活をしたので、関西の大学でもよかったのですが、大学を東京にしたのは、「吃音は治る、治せる」と宣伝する東京正生学院に行くためでした。
 東京正生学院の寮に30日間入りました。合宿生活なので、朝から夜遅くまで、訓練に明け暮れました。ここでの方法は、「わーたーしーのーなーまーえーはー…」と、ゆっくり、やわらかく言うんです。ゆっくり、そっと、やわらかく、バリー・ギターの流暢性形成技法をしていたことになります。街頭訓練もありました。一日100人に声をかけて、「警察署はどこですか」「郵便局はどこですか」と聞きます。同じ人に聞いてしまうこともありました。
 一番嫌だったのは、山手線の電車の中での演説練習です。1駅分くらいの原稿を用意して電車に乗り、「皆さん、突然、大きな声を張り上げまして失礼ですが、私のどもりの克服のために、ちょっと時間をお貸し下さい」と言う。調子のいいときは、「ありがとうございました」と言って、さっと逃げられる。池袋駅から乗って、目白駅で逃げるというのが、僕の定番だったのですが、調子が悪いときは、そうはいかず、「ありがとうございました」を言う前に、すうーっとドアが閉まる。みんなのなんとも言えない、冷たいような、ばかにしたような視線を浴びながら1駅をやり過ごすことの辛さは、未だにしみています。
 上野の西郷さんの銅像の前でも演説をしました。そのときに、僕は、どもるくせにどもらない話し方をして、「みーなーさーん、私はどもりで…」と言って、本当に理解が得られるのかと思いました。「みみみみみ皆さん…」とどもりながら言うのが僕の話し方なのに、ゆっくりとどもらないで言うのは、詐欺商法のような感じがして、失礼じゃないかと思ったのです。ゆっくり、そっと話す訓練をしても治らないだろうと、訓練を始めてすぐ、おそらく2日目か3日目に僕は思いました。
 僕は、あれほど治したかったどもりなのに、どもりが治ること、治すことを諦めたのです。諦めることができたことに、また、女性がからんでいます。東京正生学院に入ってすぐ川内瑠璃子さんという広島の大学生と恋人になりました。僕は、同性の友だちもいないのに、恋人なんてできるはずがないと自信があったのですが、どういうきっかけか分からないけれど、彼女とすぐに仲良くなりました。毎朝、訓練の始まる前に、東京正生学院の前の鶴巻公園でしゃべりました。それまで全くしゃべらなかった人間が、彼女ができたことで、いっぱいしゃべりました。彼女の前では、「わーたーしーはー」と、こんなしゃべり方はできません。自然にどもってしゃべりました。彼女は、そんな僕の話を温かく聞いてくれました。また、ありがたいことに、すぐに大学生の親友が2人できました。恋人と親友ができたことは、僕にとってものすごいラッキーでした。大切なその人たちの前で、僕は、素直にどもりました。そのとき、しゃべるということは、こんなにうれしくて楽しいことなのか、たとえどもっていたとしても、しゃべることは楽しいし、人はちゃんと聞いてくれると心の底から思いました。こんな経験をすると、どもらないようにどもらないようにと必死になって気をつけてしゃべることがばからしくなりました。
 他の人たちは、教えられたことを忠実に守って「おーはーよーうーごーざーいーまーすー」としゃべっていましたが、僕は全く無視をして、劣等生になり、どもってどもってしゃべりました。東京正生学院は、どもりを治すための訓練をする、どもらない話し方を身につけるための訓練所だったはずなのに、僕にとっては、どもる練習をしているようなものでした。「どもれる体」になった場所ということになります。そのことに、去年の秋、東京大学で講演した時に初めて気がつきました。おもしろい発見でした。どもれる体になるということは、実はとてもステキなことで、子どもにとっても大事なことではないかなと思います。

伸二3 皆さんは、どもる人の悩みは、どもることだと思っているかもしれませんが、実はそうてはなくて、どもれないのがどもる人の悩みなんです。たとえば、優秀で昇進していって、課長になった人がいました。普段はよくしゃべる人間です。だけど、課長になったことによって、200人くらいの前で、「起立願います。着席願います」という短いことばを言わなければならない。課長になるくらいだから、みんなの前で、長い話はいくらでもできるけれど、「起立」「礼」などの短いことばをぱっと言うことができない。どもる人は、四六時中どもっているわけではありません。高校生たちも、飲食店のアルバイト先で「ありがとうございます」が言えないと悩んでいます。自分の仕事はとっくに終わっているのに、「失礼します」が言えなくて、みんなが帰るのを待って、一番最後に帰っている、そんな笑い話みたいなこともあります。「失礼します」「ありがとうございました」そんな短いことばが言えないのです。普段、それなりにしゃべれているから、どもりたくないし、こういう短いことばでどもるということが、自分には許せないのです。だから、子どもの頃から、平気とは言わないけれども、まあまあどもれるようにしておくこと、どもることに慣れておくことが大事だと思います。 それなのに、アメリカの言語病理学は、どもらないように、どもらないようにしようとしています。どもらないようにしようとすることは、どもることはいけないことだということを、常に、自分に繰り返し繰り返し語っていることになるんです。そのことに、アメリカ言語病理学は気づいてくれません。「どもれる体」になったということは、僕にとって、とてもありがたいことでした。

 どもれる体になった、ただそれだけのことで変われたのだとは思えません。あれだけ苦しかった悩みから、なぜ変われたのか、分からなかったのですが、考えて考え抜いて、ああ、そうかと気づいたことがありました。
 僕は、3歳から小学校2年生の秋の、学芸会でせりふのある役を外されるまでは、どもっていても全然気にせずに明るくて活発な子どもでした。どもるからという配慮、合理的配慮か教育的配慮かは分かりませんが、担任教師は僕に、せりふのある役をさせませんでした。僕は、そのことを「配慮の暴力」だと思っています。良かれと思っての配慮は、一方的な決めつけであり、子どものためになると思っての支援が、実は、その子どもを傷つけることもあるんだということを知っておいてほしいです。
 僕は、2年生まではとっても活発で元気な子でした。それから、21歳まで、僕は、ホコリにかぶるように、苦しみ、暗い人間になっていたのです。そんな僕に彼女ができ、親友ができ、しゃべれるようになったとき、かぶされていた黒いベールがはがれて、もともと持っている僕のレジリエンス、明るく、活発で、元気な子が戻ってきたと僕は思うんです。それが、非認知能力といわれるものでした。
 非認知能力は、幼児教育の中で、これから注目されていくもので、2017年度の幼稚園、保育所の指針として出されました。認知能力というのは、IQや学力といわれるもので、数値化できます。非認知能力とは、数値化できないもの、たとえば、やさしさ、まじめに努力する力、人を思いやる力、困難なことにも耐える力のことで、こういうことこそ大事だというのです。幼稚園教育の中でも変わろうとしています。僕はもともと持っている非認知能力があったから、治すことをあきらめ、パッと変われたのでしょう。東京大学での講演準備の中で気づいたのが「どもれる体」と、「非認知能力」でした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/17