吃音を豊かに生きた人生〜合田義雄さんの場合


合田さん

 パラグアイ在住の合田義雄さんと、40年ぶりに会いました。昨年は電話だけでしたが、今回は会うことができました。75歳にもなると、この人にもう一度会いたい、会っておきたいと思う人には会っておいた方がいいと思います。40年以上会っていないのに、是非会いたいと思える人はそんなに多くはないでしょう。50年以上も前の出会いですから、合田さんとの出会いは、どもる人のセルフヘルプグループの活動の初期のころです。

 港区の芝白金の、狭い、今にも壊れそうな事務所を新築するために、毎週のように街頭の資金カンパ運動に皆で動き回り、日曜日には事務所資金を稼ぐために、一緒に、建設会社のアルバイトに汗水流した仲間です。彼との強い記憶はふたつあります。

 ひとつは、「言友会の歌」の制作です。映画「若者たち」を全国上映に先駆けて、僕たちが上映したことからつきあいのあった、作曲家佐藤勝さんに作曲をお願いしたときのことです。黒澤明監督の映画音楽で知られる佐藤勝さんは、「若者たち」の作曲家でもありました。その佐藤勝さんに「言友会の歌」の作曲をお願いしたのです。佐藤さんから、作詞は君たちでと言われ、会員から募集しました。その中に、彼の詩もありました。集まった10編ほどの詩の中からいくつか選んで、佐藤さんに見てもらい、最終的に佐藤勝さんが選んだのが、彼の詩でした。それに佐藤さんが少し手を加えて、曲をつけ、「輝く明日」の歌が完成しました。500人ほどが集まった、言友会創立5周年大会で、フォークグループ、シュリークスが歌ってくれた、とてもいい曲です。「輝く明日」の詩を紹介します。

  
昨日まで私は一人
  故郷を出てから
  夢を語る人もなく
  やさしい春の陽の中で
  昨日まで私は一人
     今日はもう私は二人
     名前を呼び合えば
     あなたのその眼の中に
     輝く星の光りみて
     今日はもう私は二人
         明日から私は全て
         喜びも哀しみも
         仲間と共にかみしめて
         冬に陽の響く上をみて
         明日から私は全て

 もうひとつ印象に残っているできごとは、彼が国際連合の関係の機関の試験を受け、筆記試験では合格するが、面接試験では何度か不合格になったことです。彼からその悔しさを聞いたことは、強く印象に残っています。ところが、今回、出会って、そのときのことを話すと、僕の勘違いで、国連関係ではなく、国家公務員の上級試験などの公務員試験や、研究機関への試験でした。勘違いはしていましたが、彼のこの吃音に関する経験は、僕の記憶に強く残り続けていたのです。

 彼と食事をしながら話したのは、主に、移住したパラグアイの生活でした。苦労した移民生活、日本政府の移民政策、そして今の世界の「移民」の状況など、興味深い話ばかりでした。とても苦労しながら、一歩一歩と活動の輪を広げていった様子が、たくさんの写真を見せてもらいよく分かりました。常に大勢の仲間と一緒に写っている写真でした。二人の娘さんとおつれあいとの家族写真に、幸せで充実した「移民生活」を送ってきたことがよく分かりました。僕が時々、「パラグアイの移住先でがんばっている彼の姿」を思い浮かべることで励まされていたのですが、その通りだったのです。
 
 最後に、「君にとって吃音は人生にどんな影響を与えたのか」と、一番聞きたかったことを聞きました。パラグアイに向けて旅立ったのは、1974年12月ごろで、その後の人生を成功だったと振り返りました。

 「研究者・専門家の世界に挑戦したものの、だんだんと違和感を感じるようになり、自分の能力にも自信がなく、再度、大学入学当時の夢、共同生活で農業を実践する海外移住の道に戻っていった。海外雄飛だと周りからは見られたとしても、自分としては、実際は逃避だった。吃音が大きく影響したのは事実だけれど、パラグアイに渡って生活すると、生活が精一杯で「どもる、どもらない」はほとんど関係がなくなった。もう逃げる場所がない。現実との戦いで日々を過ごし、家庭を持ち、職場を数回変えながらも、能力の限り、自分の人生で学んだことを社会に活かすためにがんばった」

 ブラジルなどの海外移住者との楽しそうな交流の写真を見ながら、「困難な、しんどい状況で、合田さんを支えていた力は何だったの?」と聞くと「東京農業大学時代の、農業共同生活のサークルの仲間の力だ」とはっきり言いました。冗談を言って笑わせ、積極的に話す方ではなく、社交的とは思えない彼が、ここまで人との関係に恵まれたのは何かを考えました。

 小学校は楽しく過ごし、吃音に悩んだ記憶はあまりないが、中学高校時代の思春期はずいぶん苦しみます。大学進学で、仲間と寝食を共にする共同生活に入ったことが、彼を大きく変えたようです。それでも、吃音にまつわる苦しみはそれなりにあり、大学院に進学したころに、僕たちと出会い、吃音に悩んでいた自分を変え、広く社会に視野を広げていく、僕たちの活動は新鮮で楽しかったと言います。

 最後に吃音の人生をこう総括しました。
 「吃音のお陰で、人の話をよく聞き、理解しようとする習慣が身についた。お陰で、他人の考えも取り込んだ、より広い価値観を持つようになり、仕事には役立った。また、常に吃音と向き合うことで、結果的には自分との厳しい闘いであったために、否は否と言い、良しは良しと言う厳しさを身につけることができたことで、数多くの人生の局面で、勇気を発揮できた」
 
 そして、今、吃音を生きる人に対して、吃音をネガティヴなものと考えず、自ら吃音を語っていくことで、社会が吃音を理解する。どもる人ひとりひとりの人生は決して暗くはないと言いました。
 現在の吃音をとりまく日本の現状を、彼が詳しく知っているわけではありませんが、1年程前に日本に帰ったとき参加したどもる人の集まりの印象を、「50年前とほとんど変わっていない」と言いました。僕が書いた「吃音者宣言」は、彼がパラグアイに旅立った後に出したもので、最近の大阪吃音教室など、現在の僕たちの活動を彼は知りません。そこで、別れ際に、『吃音の当事者研究−どもる人たちが「べてるの家」と出会った』(金子書房)や、最近の日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」を手渡しました。それらを読めば、僕たちが、50年前とはずいぶん変わったと感じてくれるでしょう。
 パラグアイと日本はあまりにも遠く、彼も74歳。これが彼との最後の出会いになるのかもしれませんが、いつまでも記憶に残り続ける合田義雄さんの人生です。彼も、今後、ホームページなどで、僕の活動を見続けてくれると思います。堅い握手をして別れました。

 彼に是非会いたいと思ったのは、彼の人格、人間性に惹かれていたからでしょう。吃音に悩み、苦しんでいたとしても、「吃音を治す・改善する」ではなく、子どもの子から育まれた「人間性」が、その人の人生を豊かにすると強く思ったのでした。

 日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2019/07/02