島根県難聴言語教育研修会報告 6
 
 前回に続いて、島根の研修でこんな質問が出されました。 

伊藤さんはどもる当事者で、長年吃音研究・臨床をしてきたから、「吃音を認めて、吃音と共に生きよう」と言えるけれど、私のようにどもる当事者でもなく、若く、経験も浅い人間が、「吃音と共に豊かに生きよう」など、とても言えそうにありません。だから、治したいという子どもには、効果がないかもしれないけれど、音読練習や発声訓練を、つい、してしまいます。どう考えればいいですか。

 この質問は、前回の質問と同じように、言語聴覚士養成の大学や専門学校で、必ず出てくる質問です。私はこのように答えました。
 
 この質問の前提には、同じような経験をした人なら共感し、理解し合えるという、思い込みがあります。「当事者同士は理解し合える」かというと、必ずしもそうではありません。すごくどもる人は、ほとんどともらないのに吃音に深く悩んでいる人のことはおそらく理解できないでしょう。反対に、あまりどもらない人が、一言一言どもって苦労している、その苦労は本当のところは理解できないでしょう。どもる状態が同じ程度であっても、その人の社会的立場、経済力、親の経済力、周りの環境で、その人の悩みや苦労はまったく違います。同じようにどもる経験をしていても、互いに理解できないのです。当事者同士なら理解し合えるは、誤解であり、幻想です。そのような状況に、僕はたくさん出会ってきました。
 そもそも、「人はわかり合えない」が大前提です。その上で理解しようと想像力を働かせる。理解しようと努める。そのために互いが自分を率直に語り合う「対話」が必要なのです。理解しようとすることが、コミュニケーションだとも言えるのです。
 
 どもる人同士でも分からないのですから、みなさん教員や言語聴覚士が、どもる子どものことが分からないのは当然です。だらこそ、「無知の姿勢」で本人に教えてもらうのです。そして、みなさんは、教員として、言語聴覚士として、知り得た、知識、情報はすべて、相手に伝え、その上でどうしようかと、対等の立場で子どもと話し合うのです。「吃音を治したい」といくら子どもが言っても、現実には治療法はないし、多くの人は治っていないのですから、正直にそれを伝えるだけです。その上で、こんなふうに言えるのではないでしょうか。

 「私は吃音は治せないけれど、君が吃音とどう向き合い、どうつきあえばいいか、一緒に考えることはできる。私はどもらないけれど、どもる子どもや、どもる人の体験を直接聞いたり、本を読んで知っているので、その人たちがどう考え、どうつきあっているかを伝えることができる。また、私にも、自分の気に入らないことや、短所といわれるものや、劣等感はあるし、これまでいろんな苦労もしてきた。そんな苦労から、あなたのことは少しだけれど想像はできる。一緒に吃音について、勉強し、考えていきませんか」

 同じような体験をしていないと、その問題についてはっきりと主張できない、提案できない、相談にのれないというのなら、精神科医や臨床心理士、ソーシャルワーカーなど、相談業務に携わる人は、万引きの経験、犯罪経験、離婚経験など、様々な人生経験をしなければならなくなります。そんなことはできるはずもないです。そう話すと、多くの人は笑いますが、理解してくれるようです。

 このようなことを話したことについても、後で話しかけてくれた教員はこう話してくれました。
 
 
「吃音は治療ではない、教育なのだということばに、改めて心が揺さぶられる思いがしました。「どもらないようになりたい」といつまでも考え続けてしまう目の前の生徒に、どもらない私はどうことばを発するべきか、どもらない私のことばをこの生徒はどう受け止めるだろうかと思うことは何度もあります。今日の話の中で、精神科医や臨床心理士が、経験していないことについて語れないのだとしたら…というくだりに、ストンと落ちるものがあり、自分の中で一つ定まったものがあると感じています。本人の気持ちを尊重しつつも、担当者としての思いは伝えることが必要。伝えればいいというのも、私にとっては日頃のかかわりを肯定してもらえたようで、大きいことでした」
 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/06/22