吃音を生き抜くための 吃音Q&A 2

 吃音Q&A 32019年4月12日の大阪吃音教室「吃音Q&A」のつづきです。
 質問を出してもらい、それに答えていきました。


4.「吃音者宣言」を最近、読んでいて、その中に、甘えということばが出てきたので、気になりました。「どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生の出発(たびだち)を送らせてきた」とは、どういうことですか。

 吃音者宣言は、僕が起草文を書いたのですが、この「甘え」ということばはどうしても入れたかったのです。僕の吃音の悩みの源泉には、甘えがあると思ったからです。21歳まで、僕は「どもりさえ治ったら自分の人生はバラ色になる」と思っていました。何でも、どもりのせいにしていたら、ある意味、楽なんです。自分の逃げている、責任を果たさない行動を正当化できるからです。たとえば、恋愛でもそうです。恋が始まっても、どうせ僕はどもりだからふられるに決まっていると予想する。すると、実際にふられたとき、ああ、やっぱりなと思い、あまり傷つきません。ふられたのは、どもりだからだと、どもりのせいにしてしまうのです。本当は僕の人間性や、人間として未熟な部分が原因だったかもしれないが、どもりを原因にしておけば自分自身は傷つかないのです。どもりを隠れ蓑にして、どもりさえなければ、幸せになれるのにと、責任転嫁していることになります。 これは僕の経験ですが、たくさんの人と話すうちに、僕だけの経験ではなく、僕の周りの吃音に悩んできた人は、大なり小なり多くの人が僕と同じように「どもりさえなければ」と考えているようでした。そこで、「甘え」を入れたのです。
 アドラー心理学でも何かを理由にして、口実にして人生の課題から逃げることを、劣等コンプレックスといいます。精神科医の土居健郎さんは、「日本人の甘えの構造」を書きましたが、日本人だけの特別のことではなかったのです。アドラーのいう劣等コンプレックスは、日本のことばで言うと、「自分への甘え」ということになります。

5.子どもがどもっているとき、とても苦しそうで見ていられない。何を言おうかということが分かっていたら、代わりに言ってもいいかなと思うのですが、やはり待つべきなのでしょうか。

 この質問は、吃音相談会など、保護者との集まりではよく出てきます。それは、いろいろな本に、「どもっているときは最後まで待ちましょう。そうしないと、どもっていても最後まで話せたという子どもの達成感を奪ってしまいます」などと書かれているからです。しかし、僕は、違うと思います。言おうとしている内容が分かっているのに、長く待たなければならないとなると、お互いにしんどいです。どもる子どもは、「どうしても自分で言いたいときは、待ってほしい。でも、どうでもいいことだったら、代わりに言ってくれた方がいい」と言います。だから、「こういうことが言いたかったのかな?」と言ってもいいと思います。そのとき、大事なことは、必ず、後で、「さっき、代わりに言ったけれど、どうだった? 嫌だった? 待った方がよかった?」と聞くことです。子どもが待って欲しかったと言えば、これからは、待てばいいです。同じ待つにしても、お互いに緊張感を持たずに待つことができるでしょう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/20