武藤類子さんのスピーチ

 ドキュメンタリー映画「福島は語る」の紹介は、これで最後にしますが、ここで、「福島は語る」の中に登場したひとり、武藤類子さんのことばをどうしても紹介したいと思いました。
 映画を観る少し前、定期購読している「週刊金曜日」に、武藤さんのロングインタビューがありました。穏やかな、素敵な笑顔の人だなあと、写真を見て思っていたのですが、「福島は語る」の中でも、中身は厳しいのですが、武藤さんは穏やかに語っていました。
 映画の中で、武藤さんは、このように語っています。

 人に罪を問うということは、自分の生き方も問うということです。「あ、これこのままにしておいたら、また同じことが起こるな。繰り返されるだろうな」ということでした。被害にあった人は責任があると思いました。「他の人をまた同じ目に合わせない」という責任です。「人に罪を問う」ということは、「自分が何を負うか」ということです。それは、「その人の罪を問わない」ということではありません。問うことによって、また自分がすべきことが明確に見えてくるんじゃないかと思うんです。


 「週刊金曜日」に紹介されていた武藤さんのスピーチの一部を紹介します。震災のあった年の秋、2011年9月11日「さよなら原発集会」(東京・明治公園)でのものです。


    
目をそらさずに支え合い、軽やかにほがらかに

 3.11からの大変な毎日を命を守るために、あらゆることに取り組んできた皆さん、一人ひとりを深く尊敬いたします。それから、福島県民に温かい手を差し伸べ、つながり、様々な支援をしてくださった方々に、お礼を申し上げます。ありがとうございます。
 そして、この事故によって大きな荷物を背負わせることになってしまった子どもたち、若い人々に、このような現実を作ってしまった世代として、心から謝りたいと思います。本当にごめんなさい。
 福島はとても美しいところです。山は青く、水は清らかな、私たちのふるさとです。
 3.11原発事故を境に、その風景に目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャとなりました。半年という月日の中で、次第次第に鮮明になってきたことは、
「事実は隠されるのだ」
「国は国民を守らないのだ」
「事故は未だに終わらないのだ」
「福島県民は核の実験材料にされるのだ」
「莫大な放射能のゴミは残るのだ」
「大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ」
「私たちは棄てられたのだ」
 私たちは疲れと、やり切れない悲しみに深い溜息をつきます。
 でも、口をついてくる言葉は、
「私たちを馬鹿にするな」「私たちの命を奪うな」です。
 私たちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です。
 私たち福島県民は故郷を離れる者も、福島の地に留まり生きる者も、苦悩と責任と希望を分かち合いたい、支え合って生きていこうと思っています。
 私たちとつながってください。政府交渉、疎開裁判、避難、保養、除染、測定、原発・放射能についての学び。どこにでも出掛け、福島を語ります。どうか、福島を忘れないでください。
 もうひとつお話ししたいことがあります。それは、私たち自身の生き方、暮らし方です。私たちは何気なく差し込むコンセントの向こう側を、想像しなければなりません。便利さや発展が差別と犠牲の上に成り立っているということに思いを馳せなければなりません。原発は、その向こうにあるのです。
 人類は地球に生きるただ一種類の生き物に過ぎません。自らの種族の未来を奪う生き物が他にいるでしょうか。
 どうしたに原発と対極にある新しい世界を作っていけるのか。できうることは、誰かが決めたことに従うのではなく、一人ひとりが、本当に、本当に、本気で、自分の頭で考え、確かに目を見開き、自分ができることを決断し、行動することだと思うのです。
 一人ひとりりにその力があることを思い出しましょう。私たちは誰でも変わる勇気を持っています。奪われてきた自信を、取り戻しましょう。
 原発をなお進めようとする力が垂直にそびえる壁ならば、限りなく横にひろがり、つながり続けていくことが、私たちの力です。
 たった今、隣にいる人と、そっと手をつないでみてください。見つめあい、お互いの辛さを、聞きあいましょう。涙と怒りを、許しあいましょう。今、つないでいるその手の温もりを、日本中に、世界中に拡げてゆきましょう。
 私たち一人ひとりの背負っていかなくてはならない荷物が、途方もなく重く、道のりがどんなに過酷であっても、目を逸らさずに、支えあい、軽やかに、朗らかに、生き延びていきましょう。

2011年9月11日「さよなら原発集会」(東京・明治公園)での武藤類子さんのスピーチ(抜粋)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/3/17