川野通夫先生との思い出


 昨日、知人の喜多順三郎さんから、川野通夫先生がお亡くなりになったとのメールがありました。長年病床にあったために、覚悟はしていたものの、寂しさがこみ上げてきます。
 言語病理学を日本に導入した神山五郎先生、心理学から吃音研究の第一人者だった内須川洸先生、高知県の須崎市のことばの教室の教員から、京都大学音声科学研究所へ、そして京都教育大学教授として主に口唇口蓋裂にかかわってこられた川野先生。ここ2年でとても親しくしていただいていた言語障害の分野の草分け的存在が相次いでお亡くなりになったことになります。ひとつの時代の終わりを感じざるを得ない別れになりました。

 43年前、僕は、大阪教育大学特殊教育特別専攻科の教員をしていました。「どもりはどう治すかではなく、どう生きるかだ」との僕の吃音哲学が、単にセルフヘルプグループでの活動、大学の研究室での研究だから言えるものなのか、グループも治療機関もない地方都市でひとりで悩んでいるどもる人に通用するのか、受け入れられるのか、検証することなく、次の段階に進むことはできませんでした。そこで、ひとりで悩んでいる人を主な対象として、全国を巡回して、吃音相談会をすることにしました。僕の研究室の研究生ふたりが同行してくれ、僕を含め三人で出かけました。 
 
 「日程と会場だけ、ことばの教室の先生や親の会で確保してもらえれば、講師料なしで、交通費も自分で負担して行きます」と、全国各地のことばの教室にお願いをしました。昭和50年のことで、ことばの教室が全国各地にできていった頃でした。その初期のころの活動を支えてきた全国各地のことばの教室の先生方がたくさん僕の要請に応えてくれました。

 そのひとりが、高知県須崎市でことばの教室担当だった川野先生でした。お酒が大好きで、豪快な人でした。相談会のことはよく覚えていませんが、川野さんは自宅に僕たちを泊めてくれて、歓迎してくれました。「伊藤君、男なら酒が飲めないといかん」そう言って、注いでくれるのですが、僕はお酒は全く飲めません。その頃は今ほどはっきり断ることができず、少しは口をつけたように思いますが、まいったなと思っていたことは覚えています。その後、川野さんは、京都に出てこられ、京都大学医学部の音声科学研究所に転身されました。
 深いおつきあいになったのは、「口蓋裂の相談」というパンフレットを作ったときでした。僕たちが、「どもりの相談」という薄いパンフレットを作った後、口蓋裂のパンフレットも作りたいとの話になりました。パンフレット2冊
 「似て非なるもの」という文章が残っています。吃音と口蓋裂、隠したいという思いが強いこと、そこからくる問題など、吃音と似ていることを挙げ、さらに、似ているけれど、口蓋裂には吃音とは非なる深い問題があると書きました。パンフレットの制作を通して、川野さんとはかなり濃密なやりとりをしました。
 
 12月22日、高知市での吃音相談会が終わった後の懇親会でお会いした大崎聡さんは、川野さんのご親戚でした。大崎さんは、翌日の言語聴覚士会の吃音研修会のお世話をして下さいました。大崎さんとは、川野さんのお家か、僕の研究室かでお会いしたそうですが、僕は覚えていませんでした。僕が、大阪教育大学を辞めてカレー専門店をつくろうとしていたころだったようで、大崎さんは、「大学を辞めてカレー屋さん? 珍しい、おもしろい人だなと思った」と、そのころのことを思い出してなつかしそうに話してくれました。懇親会では、川野さんのなつかしい思い出話をたくさんしました。
 高知に、川野さんの考え、行動は、確かに根付いているようです。島根に、大石益男さんがいたように、川野さんも高知に大きな影響を与えたのでしょう。残念ながら、入院中の川野さんにはお会いすることができませんでしたが、何度もお会いしたことのある、おつれあいとは電話でお話させていただきました。

 昨日、川野先生が亡くなったとの報に接して、直接会えなかったものの、みんなで、川野先生の思い出話をして、おつれあいと久しぶりにお話ができたこと、よかったなあと思いました。
 高知県とはほとんど縁がなくなっていたのが、昨年末、「どもる子どもの保護者のための相談会」「言語聴覚士会の研修会」で高知市に行くことができたことは、川野先生の導きだと感じました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/1/16