祝 大阪セルフヘルプ支援センター25年


 8月4日、午後6時半から、大阪ボランティァ協会で、大阪セルフヘルプ支援センターの総会が開かれました。前半、特別企画として、「大阪セルフヘルプ支援センターの25年、そしてこれから」のイベントが行われました。
 大阪セルフヘルプ支援センターの正式の設立は、1993年5月8日だそうで、現在26年目に入っているとのことでした。準備会が何回か開催されているときには僕は参加していなかったのですが、正式設立の会から参加し始めました。その頃に一緒に活動していた人たちとの、久しぶりの再会になりました。登壇したのは、僕のほかに、次の人たちです。

  松田博幸さん(支援センター代表・大阪府立大学教員) 
  中田智恵海さん(ひょうごセルフヘルプ支援センター)
  河地敬子さん(中卒・中退の子どもをもつ親のネットワーク)

 「セルフヘルプって何?」と言われていた時代に、「セルフヘルプ支援センター」の必要性を確信し、議論し、そして設立していった人たちの話を聞いて、その頃の雰囲気を出席者に伝えてほしいというのが、企画した人のねらいのようでした。最初、それぞれが、「あなたにとって、セルフヘルプ支援センターって何ですか?」の問いかけに、答えていきました。
 僕が、どもる人のセルフヘルプグループを作ったのは、1965年。僕自身がグループの運営で困っていたわけではないけれど、各グループのリーダーが、困ったことを相談したり、情報交換したりする場がなかったときに、支援センターのもつ意味は大きかったと思います。リーダーが、リーダーに出会えてホッとしたということになるでしょうか。セルフヘルプグループリーダーのセルフヘルプグループです。大阪セルフヘルプ支援センター1
 仲間に出会えてよかったと思いました。例会に参加したり、電話当番をしたり、信貴山で「セルフヘルプグループとは何か」について話し合う合宿したのもいい思い出です。「信貴山宣言」なる、「セルフヘルプグループの意義」を作ったりもしました。メンバーも、専門職者も多くいて、いいバランスでした。その中で、「セルフヘルプグループ一問一答」の本、朝日新聞の福祉ガイドブック「セルフヘルプグループ」の冊子作りにも関わりました。この冊子は、13のグループの実体験が掲載されていて、専門職もその立場で書いていて、今でも十分に読めるいい冊子だと思っています。
 この支援センターのおかげで、つながりが広がりました。参加していた読売新聞の記者の森川明義氏さんから、應典院の秋田光彦さんにつながり、僕たちの毎週金曜日の会場を貸していただくことができるようになりました。セルフヘルプグループのひとつの重要な点として、たとえ参加できなくても、いつもの場所、いつもの時間に、そこに行けば仲間がいるというのがあります。まさに、その重要なポイントになっています。というように、僕は、この支援センターのおかげで、大変ありがたい出会いをさせていただきました。感謝しています。

 中田さんは、口唇・口蓋裂の子どもの親で、同じようなお母さんと出会いたいと思って、グループ活動を始められました。専門書はあるけれど、そうではなく、日々の生活の中で子どもをどう育てていくのか、周りの人にどう打ち明けたらいいのか、そんな些細な、けれど重要な情報が、グループの中には山のようにあったと言います。そこから、大学院に行き、論文を書き、大学の教員になり、支援センターにつながり、大阪から独立して、ひょうごセルフヘルプ支援センターを作って、今も活動をされています。

 河地さんは、ご自分のお子さんとのかかわりで、不登校など教育の市民活動をされていました。福祉のことは何も知らなかったけれど、活動を通して、様々な出会いの中から、働く子どもを支援するようなグループがないなど、活動が広がっていったそうです。リーダーのセルフヘルプグループがあってよかったと言っていました。今も、会合を開き、ニュースレターを発行しておられます。

 松田さんは、市役所、精神科病院、保健所などで働く中で、自身もグループに関わるようになります。しんどい生活の中で、そういう生活をしている人が、社会のことや社会福祉のことを語ってもいいんじゃないかと思い、大学院に行き、セルフヘルプ支援センターの準備会にかかわるようになりました。途中、やめようという話にもなったそうですが、やっぱりやりましょうという声に背中を押され、設立に向けて活動されました。どんなグループがあるのだろうか、そのグループの整理から始めたそうです。それを相談してきた人に提供していこうと、電話相談も始めました。もう抜けたいなと思うこともあるようですが、場所と時間をキープしておくことは、安心感につながると、その存在の重要性を話しました。
大阪セルフヘルプ支援センター2
フロアーの参加者の自己紹介も交え、登壇者に質問も出ました。
長く続けてきたコツは?
・しんどいときにはしんどいと言う。
・続けてきたというより、続いてきちゃったというのが実感。傷のなめあいだという人もいたけど、それが悪いのか。傷のない人なんているのかと思っている。
・リーダーが頼りなかったので、周りがしっかりしてくれた。

 このような話が出ましたが、僕も同感です。僕は、いつ、やめてもいいと思っています。しなければいけないからしているのではなく、活動が好きだからしているだけです。

 対話の意義についての質問を受けてこう話しました。
 最近、「吃音」のことを、どもるというただ単に話しことばの特徴だけなのに、「吃音症」という人がいます。「症」がつくと、治さなければならないものになってしまいます。僕は、どもる人を、どもるというある意味辛さを抱えながら生き延びていく人だと思っています。対話を続ける中で、どもりながらもこんな体験ができた、こんなこともできたと、そんな物語をみつけていくことができます。どもりながらも豊かな生き方ができる、そんな力を持っている人だと信じているのです。

 今は、インターネットが普及し、グループに集い、顔と顔を合わせて話し合うということがなくてもつながっているという思いをもつことができるような時代になりました。それでも、僕は、人と人とのつながり、温かさを直に感じることができるグループが好きです。ネット上ではなく、直接顔を合わせて話し合うことの大切さを思います。
 大変忙しくなって、支援センターの活動にかかわることができなくなってしまった僕ですが、こうして、仲間がセルフヘルプ支援センターの続けていてくれたおかげで、25年目を迎えることができたこと、心から感謝しています。

日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二  2018/08/06