神山五郎死去 毎日新聞ブログ用45

 今日の毎日新聞の「悼む」のコーナーで神山五郎先生の記事がありました。日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」では特集を組みましたが、ブログではまだ紹介していなかったので、その特集号の一面記事を紹介します。明日は、神山先生からのメッセージも紹介します。


 神山五郎先生、ありがとうございました

 「神山先生が、6月16日(金)午前4時38分に息を引き取られました」
 この報を受け、悲しさ、寂しさ、様々な思いが駆け巡りますが、一番大きなものは、心からの感謝の気持ちでした。

 昨年の島根大会に続いて、全国難聴言語障害教育研究協議会近畿大会での吃音研修会や分科会の講師、臨床家のための吃音講習会、山形県難聴言語研究会の講演、吃音親子サマーキャンプと続く、「吃音の夏」。どもる子どもや保護者、ことばの教室の教員との活動や、言語聴覚士養成の大学や専門学校での講義などの活動ができるのは、すべて、神山五郎先生のおかげです。

 大学を卒業後、大阪教育大学言語障害児教育教員養成一年課程に行きたいと相談してきた後輩を紹介するため、一緒に横浜のご自宅を訪ねました。そのとき、大阪教育大学での教育を、熱く、楽しそうに語って下さいました。大阪に行く気など全くなかった私が、その場で大阪行きを決意していました。この日が、私の運命を変えました。

 1年間学んだ後、研究生として残り、言語障害児教育教員養成一年課程の運営のすべてを任されました。緊張の毎日でした。「Mr. Ito」と、私の能力を超えた様々な指示がどんどん私のデスクにたまります。必死にこなしましたが、「あんな怖い神山先生と、よく毎日一緒にいられますね」と多くの人から心配されました。たくさんのことを厳しく指導していただきましたが、特に文章について、大久保忠利・東京都立大学教授から、「君は、どこで文章修行をしたのか」と褒められたとき、私信にまで赤ペンで指導されたことを話していました。

 文部省に申請していた、言語障害教育一年課程から特殊教育特別専攻科への格上げと、教員1名の増員が許可されたとき、「東京都身障センターのスピーチセラピストか、大学の教員か、おまえの好きな道を選べ」と言って下さり、私が「教員」を選ぶと、実績のない私の、書籍や論文の共著など、実績作りに奔走して下さいました。将来、大学教授の道につながる文部教官助手に採用されました。

 全国各地のことばの教室の教員の協力を得て開催した3か月の35都道府県38会場での全国巡回吃音相談会も、2冊の書籍の出版も、大学の教員だからできたことでした。しかし、講師に昇進し、楽しくやりがいがあったのに、私は大学を辞める決意をしました。私の将来を考えてのことであったとしても、心理学からのアプローチを指向していた私に、医学部大学病院での医学研修や興味のもてない研究テーマを設定するなど、今後の私の進路のすべてが神山先生の意向で決められていくことに強い反発を感じたからです。

 自分の人生は自分で決めると、大学を辞めることを報告しに行った時、病院近くの猪苗代湖のほとりで、「俺が、どんなにおまえに期待をしていたか。それを無にするなら勘当する」と、ものすごい剣幕で怒られました。その後は、一切会うことはなかったのですが、数年前に私の方から訪ねて再会したとき、とても喜んで下さいました。だから、昨年90歳のお祝いの会にも参加できました。

 後日送られてきた34名の参加者への感謝の手紙の中に、私のことだけが書かれていました。神山先生の私への思いの強さを改めて知りました。
 私の2冊目の本へのコメントを胸に刻んで精進していきます。ありがとうございました。合掌

 
  つねにすがすがしい好漢    神山五郎
 高倉健に惚れ、かつどもりである大学教官というふうに彼を紹介しておこう。事実、伊藤伸二を慕うどもる人々や関係する学生は多い。彼自身も面倒見がよくつねにすがすがしい。
 彼がどもりながら話すせいか、聞き手はつい彼の指示に素直に従ってしまう。かようにどもりであるメリットを生かし続けている好漢である。
 この度、どもりであることを主張し、生かす自他の方法、体験などを集め、評価し、書となすという。草稿は全く見ていない。世のなかから厳しく批判されたほうが薬になる段階に彼はいる。読者の叩き方が強ければ強いほど、彼は強くなる。一つおおいにやっつけてください。彼がどうさばくか、それを見るのもまた楽しい。
(郡山市熱海総合病院・健康教育センター所長)
 『吃音者宣言 言友会運動十年 伊藤伸二編著 たいまつ社 1976年』

      『スタタリング・ナウ  275号 2017年7月18日』


日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017/08/07