人は物語によって、悩みもするし、救われもする 

 僕がナラティヴ・アプローチに強い興味と、学びたいとの意欲をもったのは、このことにつきます。
 僕が吃音に悩み始めたのも、「どもりは悪い、劣った、恥ずかしいもの」の、当時、社会に支配的だった、ドミナントストーリーに影響され、そこから紡ぎ出された物語を自分の体験によって強化し、その物語に支配されて生きました。
 21歳で、どもる仲間と出会い、セルフヘルプグループを作って、対話を重ねる中で、その物語を書き換えることができました。悩んでいくプロセス、解放されていくプロセスを、ナラティヴ・アプローチが見事に説明してくれたのです。

 今回は、ナラティヴ・コロキウムのプログラム「ナラティヴ・メディスンの世界」に刺激を受けて考えたことを書きます。当日配布された資料には、ナラティヴ・メディスンをこう紹介されていました。 

 ナラティヴ・メディスンとは、リタシャロンによりコロンビア大学医学部生・医療専門家向けに2000年より実施されている教育プロジェクトです。物語能力を通じて実践される医療。病いや苦悩を抱える人の語りを聴くためには固有の能力、すなわち物語能力が必要であり、それは、物語的訓練によって高められる。物語訓練としては、文学作品を読む、パラレルチャートを書く、そして、それを声に出して読み上げて聞くことを挙げています。 

 物語能力

 僕が吃音の悩みから解放されたのは、物語能力があつたからだと思います。人が、悩みから解放されていく道筋には、勉学、スポーツ、芸術、宗教など、多種多様にあると思います。人それぞれです。特別に才能も、能力もなく、努力をする忍耐力もなかった僕にとっては、多少物語能力があったからだと思います。
 小学2年生の秋から21歳までの苦悩の人生を、死なずに生きてこられた要因のひとつが、今、分析してみると、文学、小説、映画などの物語に対する感受性があったからだと思うのです。僕は人一倍感受性の強い子どもでした。映画をみてよく涙を流していました。悲しい結末を迎える母物映画をみては、母親のことが心配になり、家に駆け戻るような子どもでした。当時は学校で、生徒が一緒に映画をみる機会があり、真っ赤に目をはらしているのをからかわれたものでした。
 小学1年生の頃、見た映画の、日本戦没学生の手記『きけ、わだつみの声』(1950年)に大きな衝撃を受けました。その映画の3つほどのシーンが今でも思い出せます。そのときから、反戦少年になり、それは今でも続いています。

 学童期・思春期、僕には遊ぶ友達がいなかったので、一人ぼっちでした。夏休みなど、一人で過ごす時間がたっぷりとありました。図書館によく行きました。子どもの頃は、子どものための世界文学全集、中学生になるとかなり難しい本も読んでいました。映画館に入り浸り、当時の洋画はほとんどみているくらいです。本では、下村湖人の「次郎物語」、映画では、ジェイムス・ディーンの「エデンの東」に、僕は助けられました。死にたいくらいにつらかった学童期・思春期、僕はたくさんの本と映画に救われました。人生には苦しく、つらいことがあるけれど、生きていくに値するものだと、たくさんの物語が知らず知らずのうちに、僕のからだにしみこんでいったのでしょう。
 だから、21歳の一度の吃音治療体験で、きっぱりと「どもりが治る」ことを諦め、どもりながら生きていく覚悟を決めることができたのでしょう。

 小説や映画の物語を自分の中に取り込まず、「所詮、あんなのは作り物で、僕の人生とは違う。人は人、僕は僕」と思っていたら、いつまでも「どもりは、悪い、劣った」との物語を手放すことができなかったかもしれません。物語に涙を流す感受性、世界で起こっている様々なできごとを想像する力がなかったら、自分だけの世界に閉じこもっていたかもしれません。吃音に深く悩んだ、悩みの中から、何もつかまなかったかもしれません。
 今、あのとき、中途半端に慰められれ、中途半端に友達がいたら、孤独の中で、小説や文学、映画に出会わなかったかもしれません。 
 学童期・思春期の、悩みの中にいる人たちに、ひとつの提案として、「物語能力」を身につけてほしいと思います。本を読み、映画をたくさん見てほしいと思うのです。

 ナラティヴ・メディスンは医療従事者の訓練ですが、吃音に当てはめて考えてみると、ことばの教室の教師や言語聴覚士などの専門家だけでなく、どもる当事者、どもる子ども、どもる子どもの親、すべての人の「物語能力」を育てることが、とても必要なことのように、体験を通して考えました。 

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017/03/15