「ミスターラグビー」と言われた、平尾誠二さんが亡くなりました。53歳のあまりにも早すぎる死に、ことばもありません。先代の若乃花の時代の相撲も、長島茂雄現役時代の野球も好きでしたが、今では両方ともまったく興味を失って20年以上になります。唯一、ラグビーだけは大好きで、テレビでも見ますし、球技場にも出かけます。新日鉄釜石の7連覇は今でも忘れられません。同志社大学の大学日本一の3連覇もテレビで見ていました。松尾雄治さんなど往年の名選手の華麗なステップを見てきたひとりです。
正月の大学ラグビーと1月15日に行われていた日本選手権をいつも楽しみにしていました。平尾誠二さんのファンということではありませんでしたが、その姿はよく覚えています。サッカーよりはるかに人気のあったラグビーでした。
吃音親子サマーキャンプの卒業生の森田俊哉さんが、早稲田大学のラグビー部に入り、毎年12月の第1日曜日に行われる、早稲田大学と明治大学の早明戦のチケットを買ってくれるようになり、彼が大学を卒業するまで、彼の家族と一緒に早明戦を見に行っていました。オリンピックのために取り壊され、使えなくなる最後の年の国立競技場での早明戦。松任谷由実が来て、「ノーサイド」を歌うなど、盛り上がりました。
僕は明治大学出身なので、校歌を歌う、学生時代の気分に戻れるうれしい時間でした。今年も、すでにチケットは買ってあり、12月の僕の楽しいイベントなのです。
1989年、平尾誠二さんの神戸製鋼が初めて日本選手権で初優勝しました。これまでの、まじめに、努力を重ねて7連覇した新日鉄のセオリー通りのラグビーとは違うラグビーで、日本一になった時、「ラグビーは究極の遊びだ」と、平尾さんは言いました。あれほど、大変な、からだとからだが激突する格闘技のようなスポーツを「究極の遊びだ」と言う、そのことばが、とても印象的だったので、当時発行していたニュースレターに、それをもじって巻頭言を書きました。紹介します。僕たちにとって今は、17年続いている、吃音親子サマーキャンプは究極の遊びなのです。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/10/24
正月の大学ラグビーと1月15日に行われていた日本選手権をいつも楽しみにしていました。平尾誠二さんのファンということではありませんでしたが、その姿はよく覚えています。サッカーよりはるかに人気のあったラグビーでした。
吃音親子サマーキャンプの卒業生の森田俊哉さんが、早稲田大学のラグビー部に入り、毎年12月の第1日曜日に行われる、早稲田大学と明治大学の早明戦のチケットを買ってくれるようになり、彼が大学を卒業するまで、彼の家族と一緒に早明戦を見に行っていました。オリンピックのために取り壊され、使えなくなる最後の年の国立競技場での早明戦。松任谷由実が来て、「ノーサイド」を歌うなど、盛り上がりました。
僕は明治大学出身なので、校歌を歌う、学生時代の気分に戻れるうれしい時間でした。今年も、すでにチケットは買ってあり、12月の僕の楽しいイベントなのです。
1989年、平尾誠二さんの神戸製鋼が初めて日本選手権で初優勝しました。これまでの、まじめに、努力を重ねて7連覇した新日鉄のセオリー通りのラグビーとは違うラグビーで、日本一になった時、「ラグビーは究極の遊びだ」と、平尾さんは言いました。あれほど、大変な、からだとからだが激突する格闘技のようなスポーツを「究極の遊びだ」と言う、そのことばが、とても印象的だったので、当時発行していたニュースレターに、それをもじって巻頭言を書きました。紹介します。僕たちにとって今は、17年続いている、吃音親子サマーキャンプは究極の遊びなのです。
セルフヘルプグループの活動は“究極の遊び”だ
伊藤伸二
“ええかっこしようぜ”
キャプテン平尾誠二の大きな声と共にグランドに出た神戸製鋼フィフティーンは、楽しそうに走り回り、ラグビー日本一の座についた。
雪の中のきびしい練習に酎え、“鉄の男たち”の異名をとり、連戦連勝を続けた新日鉄釜石のラグビーとは一味違うラグビーの出現であった。根性よりもしなやかさが強さを発揮する時代のあらわれだとも言えよう。
神戸製鋼の練習は短く、ユニークだという。その練習について、平尾はインタビューで次のように話す。
『どうしてもっと練習しないのかと言われるが、これでいいと思う。我々はラガーメンである前に、一人の企業人であり、家庭人なんです。練習を倍にしたら、どれだけ犠牲が出るか分からない。
ラグビーは“究極の遊び”だと思う。遊びだからこそいろいろ考えて創造できるが、仕事みたいになれば、義務感が先に立って創造力がなくなる。練習はやりたい練習をしているが、やる時は真剣です』 毎日新聞1989.1.28
セルフヘルプグループの活動が停滞している時のリーダーは苦しい。例会への参加者は少なく、新しいリーダーも育たない。楽しかったはずの活動がおっくうになり、あまり活動していない仲間に批判的になる。それでも「今ここで自分がくじけたら…」と義務感からがんばり続ける。楽しさよりも悲壮感が漂い始めると事態はさらに悪化する。
セルフヘルプグループに集まる人たちは“遊び人”の集団ではない。しかし、「努力」「忍耐」「まじめ」「世のため人のため」だけでは、一時的な活動はできても、創造的な活動を長年続けることはできない。10年、20年と活動を続けるのは、活動の中に喜び、楽しさを見い出した人々である。
1965年にセルフヘルプグループを作った当初の活動は、楽しいものであった。誰のためでもない自分自身のためにだけ、力いっぱい活動した。そして、楽しい活動の中から多くの夢が語られ、そのほとんどが実現した。
第一回吃音問題研究国際大会は、私たちにとってまさに遊びであった。国際大会を開こうと提案された時の重く、長い沈黙が過ぎてからは、もうお祭りであった。
「一人でも二人でも外国からの参加があれば国際大会や」
「赤字が出たら、実行委員のメンバーがボーナスを一回パスすればええんや」
私たちは楽天的に考えた。しかし、最悪の事態も考えていた。そして最悪の事態になっても、たいしたことでも恐ろしいことでもないと思っていた。失敗するなら堂々と盛大に失敗してやろうとさえ考えた。実際は、『人、この素晴らしいもの』と心の底から思えるほどの多くの人々との出会いがあり、とびっきり楽しい、夢のような5日間があっという間に過ぎた。
日常の活動でも同じである。例会には大勢が参加すべきである、吃音で悩んできた者は、後に続くどもる人のために活動を活発にすべきであると考えると、そうならない現実を目の前にして苦しむことになる。自分にとってセルフヘルプグループ活動を遊びと考えることができれば参加者の数に一喜一憂することもなくなるだろう。
『学習が「何々のため」というせっぱつまった目的から「自分のため」に変わった時、知ることは100%楽しい、最高の贅沢になる』 −週刊朝日・生涯学習Vプラン−
「自分のどもりを治すため」に入ったグループで活動し、活動の意義を見い出し、「後に続くどもる人のために」から「自分自身の成長のために」が加わり、「グループの活動は究極の遊びだ」と感じる人が増えていく時、私たちのグループはさらに素晴らしいグループに成長する。そして、楽しく活動する結果として、後に続くどもる人やどもる子どもの役に立てればなお素晴らしいことである。
神戸製鋼の平尾は、理想のラグビーはと問われて『見て楽しいラグビーです。そんなラグビーはやっている者も楽しいんです。ラグビーは楽しまないとね』と言う。
『吃音とコミュニケーション』1989.2.23
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/10/24