櫛谷宗則さんが書いて下さった「いのちの吃音」を読んで、ふと、吃音がいとおしくなった。人類の歴史の中に、少なくとも紀元前300年の時代から、吃音については記述があり、今までたくさんの人が吃音とともに生きてきた。「吃音を治す、改善する」の世界の歴史は、1903年の楽石社からで、120年の歴史しかない。「英国王のスピーチ」のジョージ6世の時代は、1920年のころだ。そして、世界のどの地域でも、人口の0.8パーセントはどもる人がいるという。人間にとって、吃音はあってはならないものではなく、自然にそこにあるものではないか。
 「いのちの吃音」に、「伊藤さんの人生は吃音に守られ導かれた人生だったと思う」とある。心底そうだと僕は思う。この一年僕はかなりどもるようになった。人前に立つ講演などでは、それほどでもないのだが、日常の電話、雑談では、苦笑いするほど、ひどくどもるようになった。講演や講義でかなり話す機会の多い僕でもそうなのだ。つくづく、「吃音は治らない」ものだと思う。
 明日は、落語家の桂文福さんと会う。僕のところにかけて下さる電話で、文福さんもよくどもっている。そのあたりのことを明日、ゆっくり聞いてみようと思う。43歳で世界大会を開いたころ、僕は少なくとも人前での講演などでは、ほとんどどもらなくなった。このまま治ってしまうのではないかと心配したが、その心配はまったくなくなった。今は、どもることを楽しんでいる。

 基本設定の吃音

       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

 人間は、もともと、吃音と共に生きていくことができるように、基本設定されている。その基本設定を自分にとって不都合なものだとして、無理に変えようとすることによって、誤作動が起こり、さまざまな新たな人生の問題が生じるのではないか。もともとも備わっている、基本設定を信じることが、いのちとしての吃音を生きることだ。

 3歳からどもり始めた私は、自然に備わっていた吃音と共に生きる力で、悩むことなく、元気にどもっていた。それが私のことばだから。それが、小学2年の秋、担任教師に、学芸会でセリフのある役を外されたことで、吃音と自分とを切り離し、不都合なものとして排除しようとした。基本設定を変えようとした。どもりたくないために、話さなければならない場、話したい場から逃げた。すると、私のからだの中のどもりが反乱し始め、吃音と共に生きる力がどんどん失われ、悩みの深い吃音の人生を生きることになってしまった。

 1965年の21歳の夏、吃音に真剣に向き合い始めてからは、吃音について、常に「自分の場合はどうか」と自分に引き寄せて考えてきた。アメリカ言語病理学だけでなく、臨床心理学、社会心理学、精神医学、演劇など、様々な領域から学んだが、それ以上に、今、現実に深く吃音に悩み、身動きがとれなくなっている人、悩みから解放された人たちと当事者研究を続けてきた。自分の頭で考え、実際に行動して得たものだけをもとに、発言し、文章にしてきた。どもりにこだわり続け、どもりに生かされ、どもりに導かれて歩み続けた私は、いつか70歳になっていた。

 昨年6月、オランダでの第10回世界大会で、世界的に著名な小説家、デイヴィッド・ミッチェルさんと長時間対話をした。小説家らしい表現で、私と同じような体験を彼はこう語った。
 「自分自身である吃音と闘えば闘うほど相手が攻撃をしてきた。内戦に敗れて、絶望したとき、もう自分のDNAを傷つけたくない、自分の中のどもりさんに、君の存在を認めるよと言ったとき、どもりさんは、僕も君を認めるよと言ってくれた」

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんと思ひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
 歎異抄の、阿弥陀仏の本願力を信じて、念仏を唱える時、すでに浄土は約束されているとのことばが、ずっと頭から離れなかった。法然・親鸞・道元を通して出会った仏教と、ミッチェルさんのDNAの話と、櫛谷宗則さんが書いて下さった「いのちの吃音」が結びつき、人は吃音と共に生きるようにできているとの思いに至った。

 民族の違いを超えて吃音の発生率は人口の1%と言われる。紀元前のデモステネスの時代から現代まで、人間は悩みながらも吃音と共に生きてきた。どんなに吃音を否定しようとも、吃音と共に生きてきたことは誰も否定できない事実なのだ。言語病理学ができ、吃音が治療の対象となって、吃音の新たな問題が生まれた。本来、DNAに組み込まれている、吃音と共に生きる力を奪ったものは何か。どうすれば本来の力を取り戻すことができるかを考える時期にきている。

 吃音に対する社会の理解のなさを声高に叫び、だから、吃音は治療すべきだと主張する。一見どもる人を思う優しさの表れのようにみえるが、原因が分からず、治療法がない、話しことばの特徴を治せと求めるとは、なんと残酷なことだろう。不都合なものは、闘って挑戦して克服するという、勇ましい西洋思想ではなく、共に生きる東洋思想、とりわけ仏教思想が、吃音と相性がいい。

 「吃音は神様が私たちを選んでプレゼントしてくれたものだと考えたらいいよ」

 吃音親子サマーキャンプの子どものことばが、子どもたちに共感をもって広がっている。
 吃音への理解が少ない社会であっても、社会は敵ではなく、味方だと考え、自分と他者を大切にして誠実に日常生活を送る。どもる自分を日常生活の中に委ねて、どもりながら生きる中でこそ、吃音の理解は広がり、吃音そのものも変化していく。吃音はそのままを生きるものなのだ。
  (日本吃音臨床研究会のニューヘスレター 「スタタリングナウ」 2014.4.21  NO.236)

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月29日