人間らしく確信をもって生きよう
   消極的に自分をころすのは卑怯だ


昨日、ブログで紹介した八木晃介さんの新聞記事の文字データです。


10周年を迎えた全国言友会が「吃音者宣言」を採択

 百人に一人は吃音(きつおん=言語障害)に悩んでいるという。なんとか治そうと努力して治る場合はそれでよいが、どのように苦労しても治らないときの絶望感は非常に大きい。こうした事実を冷静にみつめ、吃音を治そう、とあくまでもそれにこだわることをやめ、吃音をもったままで、人間としてたくましく生きていこうという動きが吃音者の間で広がってきている。また、それは吃音研究者の研究の中心的な課題ともなっている。

「治らない」という現実に直面し
 吃音者の集団に「全国言友会」(丹野裕文会長、本部・大阪市)というのがある。これは、すでにいろいろな治療機関や矯正機関で吃音の治療を受けても、どうしても治らなかった人たちが作った集団。10年前、この会ができたときには、やはり「治す」ということを目的としていたが、吃音者たちはここでも「治らない」というどうしようもない現実に直面しなければならなかった。
 こうした「治らない」事実をつきつけられて会員たちは、自分たち自身の考え方を改めなければならないことに気づかされていったのである。それはいってみれば、それでもなお「治す」ことにこだわり続けるのか、それとも「治らなくてもよい、吃音をもったままで人間らしく生きていく」ことに確信をもつのか、の選択の問題であった。そして会員たちは結局、後者の方を選んでいった。

社会的活動がなおざりになる
 こうした動きについて、大阪教育大学の伊藤伸二講師は「いつまでも吃音ばかりにこだわり続けていては、そのことにエネルギーの大半を使ってしまい、人間として大切な社会的な活動(勉強や仕事)がなおざりになることを、吃音者自身が気づいたからだ」と説明している。ちなみに、伊藤講師も吃音者である。
 吃音は、かくそうと思えばかくすことも可能である。すなわち、人間として当然自分を主張すべきときでも発言せず、消極的になっておれば、自分の吃音をかくしとおすことも不可能ではない。いわば“自分をころす”ことによって吃音をかくすわけであり、こういう姿勢がながく続けば、消極的な生き方というものが文字どおり身についてしまうわけで、吃音者たちはそこを問題にするわけだ。
 「吃音が治るまではがまんしよう。治った後で、モリモリ活動しよう」という考え方が吃音者の間に多くみられるが、言友会の会員はこの考え方も否定する。吃音が必ず治るならそれでもよいが、治らないという事態に直面した場合、その考え方でいけば、一生消極的に生きなければならなくなるからである。

社会通念が吃音者を追い込む
 一方、一般の社会には「吃音は努力すれば治る」という通念があり、「治らないのは本人の努力が足りないからだ」という考え方がある。こういう考え方は明らかに吃音者を追い込んでしまう。一般社会の通念では、吃音者には「暗い」「小心」「みっともない」「神経質」などのイメージがあり、吃音者をさらに苦しい立場に追い込んでしまうわけなのだ。
 言友会の会員たちは「一体なぜ、どもってはいけないのか」というところから考え直していった。どもっていても、人間と人間の対話は十分可能なのに、どもることを恐れて対話の場からひっ込んでしまう、そういう卑屈な態度はやはり人間として本質的ではない、と考えたのである。吃音が治ったあとの自分を夢見るのではなく、吃音をもった自分がいま何をなすべきか、それこそ人間としてもっとも大切なことであることに思いいたったわけなのだ。このように書くと、吃音者でない人には何でもないことのように思われるかもしれないが、吃音者にとっては、“革命的”な変化であった。

偏見や差別を取りのぞこう
 全国言友会はことしで創立10周年を迎え、このほど東京で記念大会を開いた。そして、その場で、自分たちが吃音者であることを社会的に明らかにしていくために「吃音者宣言」を採択した。そこでは「いまこそ、自らの吃音をひき受け、吃音をもったままでも、よりよく生きる生き方を確立しなければならない」と述べている。
 吃音をかくすのではなく、むしろ積極的に明らかにし、人間としての活動に参加していくことを内外に表明したわけである。言友会の会員は約3000人だが、これまでにこの会に参加し、自分の問題を解決して出ていった会員まで含めると2万人以上に達するという。吃音研究者、学者もこの言友会の運動を正しいものと評価し、会の活動に協力している。言友会のゆき方が広く理解されることにより吃音者への偏見や差別が徐々に取りのぞかれていくことが期待されている。 1976年5月25日 毎日中学生新聞(毎日新聞学芸部・八木晃介)

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年7月14日