しばらく、生活の中でいろいろな出来事があって、更新できませんでした。
今日からまた更新を開始します。よろしくお願いします。第一回吃音講習会の、浜田さんの講演の続きです。今回で最後になります。


 第1回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会

日時  2012年8月4・5日
会場  千葉県教育会館
テーマ 吃音否定から吃音肯定への吃音の取り組み

<講演>
   ありのままを生きるというかたち 〜治すという発想を超えて〜

       奈良女子大学名誉教授 浜田寿美男



発達の大原則

 私は、世間が発達、発達と言う以前から子どもの育ちの問題をやっています。「発達」ということばは、60年代、70年代の初めくらいまでは専門家は使っても、親御さんたちが使うことはなかった。それが、80年代、90年代ぐらいにさかんに親のことばとして使われ、先生方にはもう必須の用語になった。これはちょっとまずいんじゃないかなと私は思っています。というのも、発達ということばは、どうしても「力をつける」というところにアクセントが置かれている。人の育ちをもっと全体的にとらえるためには、発達をこれとは違ったイメージで考えていく必要がある。それで、最近私は、「発達の大原則」を説いて回っています。もともとはさんざん発達批判をやってきた人間が、発達の大原則などという変に聞こえるかもしれませんが、ほんとはすごく単純な話です。

最初に、ちょっとおおげさに、「人はどうやって生きているのか」と考えます。ずいぶんと難しそうな問ですが、これには誰もが否定できない答えがあります。それは「からだで生きている」ということです。「からだで生きている」ということは、からだのあるところで生きてるわけで、それは「ここの今」です。人はからだでここの今を生きている。もちろん昨日も生きていましたが、昨日は昨日身を置いていた昨日のここの今を生きていた。明日もおそらく生きているでしょうが、明日は明日身を置くであろう明日のここの今を生きている。人はからだで、「ここの今」を生きるしかできない。だけど、刹那的に生きているということではありません。ここで今こう話していても、つい昨日のことを考えて、「しまった、ああすればよかった」などと思ってしまう。あるいはつい先のことを考えて、不安になったり、希望を描いたりする。だけど、生きているのはやはり身体のあるここの今です。

では、ここの今、このからだでどんなふうに生きているのかと考えれば、このからだの中に今手持ちにしている力、今からだに備わっている力で生きている。それ以外の生き方はできない。たしかに今日できないことも明日はできるようになってるかも知れません。ここでいう明日は文字通り明日かも知れないし、十日後、一ヵ月後、一年後かも知れません。それを象徴的な意味を込めて明日と言うとして、その明日には今日できないこともできるようになっているかもしれません。しかし、はっきりしているのは、明日できるようになるかも知れない力で今日を生きることはできないということです。今日は今日の手持ちの力で生きる以外にない。これは当たり前のことです。

 別の言い方をすると、今日やりたいけれど、力がまだ備わってないとして、そんな時、どうすればよいのか。学校的発想では、できなければできるようにがんばりましょうということになる。だけど、それは、できない今どうするのかという問いの答えにはなっていない。というのも、できるようにがんばって努力したって、できるようになるまではできないわけです。そのできない今どうするかという聞いているわけです。できるように努力するというのでは答えにならない。では、できない今はどうすればよいのか。これも答えは単純で、できないことはできないと諦めて、自分の現在の手持ちの力でやり繰りして生きる。それ以外の生き方はできないということです。そうやって手持ちの力を使ってなんとかやり繰りしていくうちに、結果的に明日できるようになるかも知れない。もちろん、ならないこともある。人が生きるというのはそういうものです。

 発達は結果であって目標ではない

 世の中でさかんに「発達、発達」と言われるようになった現在、「発達のために」というふうに、発達が目標になっている。だけど人間は発達のために生きているわけじゃない。今、それぞれ手持ちの力を最大限使って生きる以外にない。そうだとすれば、子どもや障害をもつ人たちに関わる仕事では、力を身につけさせるとか治すという発想に立つ以前のところで、その人が今自分のからだに備わっている力をちゃんと使って生きるような場面、体験を提供してるかという目で見るべきだと思います。今はとかく、子どもにどう力をつける、どう力を伸ばすのかというところに目がいきがちですが、そうじゃなくて今の手持ちの力を使ってこの世の中をしっかり生きていける体験を子どもに提供してるかどうか。そういう目で見たときに発達観は変わってくると私は思っています。
 発達はけっして目標ではなくて、結果だと私は強調したい。結果である部分を目標にした時に問題はすり返られる。昔話に「舌切り雀」という誰もが知っている話があります。人の好いおばあさんとおじいさんが怪我をした雀を治したら、のちに雀がお礼に大きいつづらと小さいつづらをもってきて、どちらかどうぞと言う。そこで謙虚なおばあさんとおじいさんは小さいつづらを選んだところ、そこには金銀財宝が詰まっていて大金持ちになる。その話を聞きつけら隣のおばあさんとおじいさんが、うちもと、雀にわざと怪我をさせて、治してあげた。お礼に、大きいつづらを選んだら、ガラクタばかりだったという話ですね。

 これは、小さい方を遠慮がちに選んだ謙虚さを説く教訓というふうにとられやすいのですが、そこにはもっと大きい教訓がある。最初のおばあさんとおじいさんは、お礼のつづらをもらおうと思って雀を治してやったわけじゃない。親切にした結果としてつづらがもらえたのです。ところが、後のおばあさんとおじいさんは、お礼につづらをもらおうと思って治療した。そこに大きな教訓があるわけで、とかく私たちはお隣の意地悪のおばあさんとおじいさんのようなことをしてしまいがちになってはいないのか、ということなんですね。

発達を目標にするようになった時、世の中は錯覚に巻き込まれると私は思っています。力は、これを使って人どうしがともに生きる世界を広げるためにある。そうして手持ちの力を最大限に使っていくなかで、結果として力は身につく。それが発達の原則です。それにまた、自分の力を使って何かをするというとき、それで自分が喜べて嬉しいとか、それが自分のためになるといったイメージで考えやすいのですが、実は人は自分の手持ちの力を使って何かをやって、それが自分の喜びになる以上に、相手が喜んでくれるということ喜びを感じたりするものです。これはすごく大きいことです。

 人間と他の動物の違いを、二本足で歩く、ことば、道具を使う、などが言われますが、あまり言われていない大事なことは、人間は自分の力を使って何かをして相手が喜んでくれるとうれしい生き物だということ、端的に言えばプレゼントができる生き物です。鳥なども雛に餌をあげたりしますが、それは雛が喜ぶからそうしているというのではなくて、単なる本能的行動だと言った方がいい。その点、人間は相手が喜ぶのがうれしくて、プレゼントする。これは肝心なことで、たとえば子育ては結構面倒ですが、その子育てが順調にできるのは、育てる過程で子どもが喜ぶ顔がうれしいんです。だから多少の苦労もいとわずにできる。子どもがにっこり笑ってくれて「おいしい」と言ってくれたり、「うれしい」と言ってくれたり、それが親にとってはうれしい。

 子どもも、
   何かをして相手が喜ぶのがうれしい

子どもたちも同じで、何かをして相手が喜んでくれたらうれしい。人間はもともとそうした生き物です。ところが、今の子どもたちは自分の力を使って何かをして相手が喜んでもらえる機会をほとんどもてずにいる。それでも、年長の子どもに赤ちゃんの面倒を見させると、すごく喜んで赤ちゃんをあやして、笑わせようと努力して、笑ってくれるとそれがうれしい。幼稚園の子どもに赤ちゃんの面倒を見させるなんて、できないと言うかも知れませんが、ちょっと昔や、開発が進んでない国では3,4歳で赤ちゃんを見ている。しかも任せている。

 子育ての文化が子どもの世界の中にあるという中で生きていれば、3,4歳でも赤ちゃんを見られるし、そういう生き方をしている民族がいまもあちこちにある。その点で、今の日本の子どもたちは自分の力を使って相手が喜んでくれる機会をほとんどもってない、非常に惨めなところで生きていると私は思ってるんです。
 神戸の震災の後でしたか、神戸では「トライやるウィーク」という、5日間連続で、子どもが行きたいところで職場体験をするということをしています。5日ではまだ中途半端だと私は思いますが、それでもおもしろいことはいろいろ出てくるらしい。

 勉強もせず、やんちゃしていて授業もまともに出ずに廊下でウロウロしていて、茶髪にピアスの中学2年生が、保育所に行った。行く気は全然なかったが、しょうがないから保育所に行ってみた。ところが、保育所はぼうっとしていられない空間で、運動場でぼうっと立っていてもすぐに子どもが寄ってきて、「お兄ちゃん、どこから来たん?」と聞き始めるから無視できない。小さい子どもから聞かれると、上から見下ろしてはしゃべりづらいから腰を下ろしてしゃべる。しゃべり始めるとおもしろくなってくる。中学生も小さい子ども時代があるので、遊びは知っている。それで子どもと遊び始めると相手が喜ぶ。その喜ぶのがすごくうれしくなって5日間ではまってしまって、「俺は保育士になる」なんて言い始めたそうです。彼は、自分の力を使って何かをやって相手が喜んでくれたという体験を初めて味わったんですね。ここに育ちの原則があるのだと私は思います。
 ところが、今の子どもたちはそういう機会をもててないところにいて、学校では力を身につけることばかりを求められている。しかもその身につけた力は試験で試されるばかりで、その力を使う体験を味わえてないことが多い。

 吃音の場合も、何であれ、手持ちの力を使って思いを伝えるとうところに焦点を当てなきゃいけないのに、流暢にしゃべる力そのものだけを問うて、これでは効率的でないとか、世間から受け入れられないのでここをなんとかしましょうという話になったところに問題があると思うんです。今の子どもたちは、力をもっていればもつだけ経済的に豊かに生きていけるというようなところに集約されてしまっている。この構図が問題だと思っているんです。これは大問題で、口で言うのは簡単ですが、どうしたらいいかわからない。みなさんが考えていただけたらと思います。ちょうど時間になりました。ご静聴、ありがとうございました。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/6/28