大阪吃音教室の吃音基礎知識の続きです。

1.吃音と進化論 
2.吃音は遺伝するのか
3.幸せに生きるには 
4.相手によって喋りやすかったり喋りにくかったりするのはなぜか
5.なぜどもらない人は、どもる人を笑うのか
6.どもりは治るのか
7.男女比のなぞ
8.「環境調整」とは何ですか?
9.吃音を隠して生きる人、認めて生きる人の違いとは 


      4. 「対等」

 質問
 1対1のコミュニケーションでも、喋りやすい人と喋りにくい人がいる。上司や立場の上の人、怖い人の前ではとてもしゃべりにくくて、普段以上にどもってしまう。その時の自分の内面をどういう風に考えていけばいいのでしょうか?

 【伊藤】
 僕は相手によってどもることが変わることはありません。どもるということで言えば、しゃべりやすい家族とのあいだの方がむしろどもります。確かに、しゃべりにくい、苦手な人はいるけれと、それは偉い人、上司だから、年上だからではなく、単に人間の好みであって、しゃべれにくさには全く結びつきません。僕がそうだからと言って、あなたのように、人によって、しゃべりにくい、どもる度合いが多くなるというのは、よく理解できます。どうしたらいいかはよく分かりませんが、とても根本的なことを話します。

 「人間関係は常に対等だ」ということをきちんと押さえておくことだろうと思います。人間は決して平等ではないけど、人との1対1のかかわりでは、常に対等だと僕は思っています。

 僕が大阪教育大学に勤めていた時のエピソードですが、有名な誰もが知っている大きな会社の社長さんが脳卒中で倒れて失語症になりました。その社長のセラピーについて、大阪教育大学、早稲田大学、失語症関係の病院と、失語症の一流のスタッフが集まって、今後の治療についてチームが組まれました。責任はチームがもつとして、実際に週に二回スピーチセラピーをする人間として、30歳前の若い僕が選ばれました。技術も実績もない僕がどうして僕が選ばれたか。もちろん他の人は忙しい人ばかりなので。週二回もセラピーの時間はとれない。それが一番の理由ですが、他には、僕が人に「物怖じしない」から選ばれたのだと思います。

 僕は大政治家でも社長でも大学教授でも、どんな立場の人間であっても僕は物怖じしなかったからです。自民党の幹事長だった田中角栄さんに会うときも、平気でしたし、NHKのテレビ局のスタジオ収録を2回経験していますが、テレビのカメラがあっても、目の前に千人いようと平気です。一対一で、相手が中学生や高校生であろうと、「人間としては対等」だと思っています。だから、感心するときは感心し、尊敬できます。年上だから、経験をつんでいるから、尊敬できるということでもありません。

 だから人によって話し方が変わるとか、恐ろしさが変わるということはない。もし相手の地位や肩書によって「自分は劣っている」と考えてしまうと、「この人の前では緊張する」「この人には言えない」「この人にはどもってしまう」ということが起こってくる。だから「人間としては少なくとも対等だ」と、「相手が社長であろうとどんな立場の人であろうと、人間としては対等だ」という感覚を持つことが大切だと思います。そういう感覚が本当に持てた時に、人間はすごく楽になるだろうと思います。

 なぜ僕はこのような考えられるようになったのかと言うと、父親の強い影響だと思います。とても貧しかったですが、父親は自分の仕事、「謡曲の師範」に誇りを持っていましたし、貧しいことを恥ずかしいとは思っていなかった。親父の口癖は「清貧に甘んじる」「鶏口となるも牛後となるなかれ」でした。すごくどもっていた父ですが、警察官や役所の上の人などの権威に、とてもアサーティヴに主張していました。

 明治生まれですが、戦前は絶対的な権威であった天皇の戦争責任を口にしていました。何かの話題の時「お天ちゃん」と言っていたのを覚えています。天皇に対してそのような態度だったので、子ども心に「人間は対等」との意識が自然に身についていたのだと思います。

 「私はどうしてこの人の前でどもるんだろうか?」「どうしてこの人の前だと恐いんだろうか」ということをちょっと考えてみる。当事者研究をしてみると、苦手な上司が、昔自分をよく叱ってきたお父さんに似ているとか、親戚の人とそっくりとか、過去の自分の経験が影響している場合もあります。苦手な人に対して研究をしてみるといいですね。研究をして「お父さんの怖かったイメージを上司に投影しているから苦手意識を感じるんだ」ということがわかったとしたら、苦手な人への対策も少し立てられる。

 「基本的に人間は対等である」。これをしっかりと自分で言い聞かせる。そうすることで少しずつ楽になっていくんじゃないかなと思います。

 「人間に慣れていく」ということも必要でしょうね。苦手な人がいて、うまく喋れなくても、話さなくても、その人の近くに行ってただ座ってみるとか。相手の目はこわくてもしっかりと見るようにするとか、苦手意識を持っている人間に慣れていけばいいと思います。「この人は、自分のどもる姿をどう思うのだろうか」と考えているとどもれないし、しんどいですよね。僕たちは、他人が思うことはコントロールはできないので、「自分の望むように自分のことを思ってほしい」というのは不可能です。

 「相手にどう思われようが自分は知ったこっちゃない」という気持ちでいかないとしんどいですね。人はそんなこと難しいとよく言いますが、自分の持っている非論理的思考に気づき、それを変えればそんなに難しいことはない。僕たちがいつも学んでいる、「論理療法」がとても役立つと思います。

 参考になる本
 石隈利紀・伊藤伸二 『やわらかに生きる−論理療法と吃音に学ぶ』 (金子書房)
 向谷地生良・伊藤伸二 『吃音の当事者研究−どもる人たちが「べてるの家」と出会った』 (金子書房) 

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/21