高倉健さんのことを書いていて、25年前に書いた、ニュースレターの巻頭言を、その後出版した「新・吃音者宣言」の中ににいれました。その文章を思い出しました。ついでと言ってはなんですが、紹介します。

 ほめる子育て、ほめる教育がかなり浸透した後、こんどはアドラー心理学などでは「ほめない」が言われます。ほめるには上からへの感じや、相手のコントロールにもつながのかねないの用心しなければなりませんが、交流分析でいうプラスのストロークのほうが僕にはしっくりきます。

 ナラティヴセラピーでいう「ユニークな結果」は僕は好きですが。
 いろんな論議がありながら、高倉健さんが、「あなたに褒められたくて」と言うと、無条件に納得してしまう。ファンならではのことでしょうか。


あなたに褒められたくて

 お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青を描れて返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハン力チ』のタ張炭鉱、雪の『八甲田山』、北極、南極、アラスカ、アフリ力まで、30数年駆け続けてこれました。

別れって哀しいですね。
いつもー。どんな別れでもー。
あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。

 高倉健 『あなたに褒められたくて』集英社

 数々の賞を受け、大勢のファンを持つ最後の映画スターと呼ばれる映画俳優の高倉健さんは、母親からのストロークが欲しくて、30数年俳優を続けてきたのだという。

交流分析のエリックバーンは、人が生きていく上で、食物をとり、睡眠が欠かせないように、プラスのストローク(撫でられる、微笑みかけられる、褒められる)は、欠かせないと言う。マイナスのストロークを与えられ続けると、自分自身にもマイナスのストロークを与えるパターンが身につく。そして他者に対してストロークを与えることができない。そして、素直にストロークを受けることができなくなる。

 あるワークショップで、「みんなの前で、自分のことをことばに出して褒めよう」というエクササイズがあった。なかなか自分を褒めることができない人が多かった。たとえ、褒めてもいいなあということに思い当たっても自慢話をするようで気恥ずかしい。自分を甘やかしているようだという人もいる。自分のことをけなしたり、叱ることはいくらでも浮かんでくるが、自分を褒めることばはどうしても浮かんでこないと立往生した人もいた。

 他者や自分を褒めることは、他者や自分を批判し、けなすよりはるかに難しい。
 自分に他者にストロークを与える人にどうしたらなれるだろうか。自分が与えるストローク、受けるストロークにまず気づくことである。そして、他者に自分にマイナスのストロークを与えがちな人はプラスのストロークを与える練習をする必要がある。

 どもる子どもの両親教室で、「子どもを叱るよりも少しでもいいことをみつけて子どもにプラスのストロークを与えて下さい」と親にお願いする。

 「捜してもいい所はみつかりません」「そんなことをすると子どもがいい気になって困ります」「いい所なんてない子を褒めるなんて、嘘をついていることになります」と親は少なからず抵抗する。

 物事には必ず両面があり、短所と思っていることが裏返してみると長所ともなる。またいろいろと捜してみて全くいい所がないという人はない。何がしかのいい所は必ずある。子どもの中のどの部分に注目するかの違いであって、嘘をついているわけではない。嘘をついているようだという人は、「私はワンパターン人間で、狭い見方しかできません。そして、その見方を変えたくありません」と表明しているに等しい。

 吃音に関して私たちは、「流暢に話せたという経験」を積み重ねるよりもむしろ「どもってでも目標を達成できた」ということを評価している。たまたまどもらずに成功したことよりも、嫌だと思いながらも逃げすに実行し、上手といかなくてもそれなり目標が達せられたことにプラスのストロークを与えたい。それはその後の人生を肯定的に生きる支えになる。
 「これまでの私なら、どもるのが嫌さに友人の結婚式の挨拶を断ったろう。でも、今回は逃げずにやれた。どもってうまく話せなかったが、最後まで言い切った。こんな自分を褒めてやろう」

 高倉健さんは、母親に褒められたくて30数年間、俳優を続けた。私は、吃音の悩みの中にあるどもる人に「あなたと出会えてよかったです」と言ってもらいたくて、25年間活動を続けてきたのではないか。そう、あなたに褒められたくて。  1991.7.25 記 

 『新・吃音者宣言』 芳賀書店 1999年11月23日発行より

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/16