日本吃音臨床研究会が毎月発行するニュースレター「スタタリングナウ」の巻頭言を毎回書いています。その後の特集記事にあわせて書くのですが、それに会わせての巻頭言なので、毎回苦労します。244号は、千葉市のことばの教室の担当者、渡邉美穂さんの25回の吃音親子サマーキャンプの〜仲間との出会い〜のタイトルの報告でした。それにあっているかどうか分かりませんが高倉健さんのことを書きました。
 神山先生関連のものとして、紹介します。

   高倉健さん ありがとう
  
    日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 吃音に深く悩んでいた学童期・思春期、私はひとりぼっちで、学校に居場所はなかった。中学2年の夏からは、母親との関係が悪くなり、家庭にも居場所がなくなった。孤独な私を救ってくれたのが、読書であり、映画だった。
 もし、本と映画がなければ、今まで生きてこられたかどうかわからない。それほどに読書と映画は私の心の支えだった。子どもの頃、特に、下村湖人の「次郎物語」とジェームス・ディーンの「エデンの東」は特別の本と映画だった。

 強い劣等感をもつ子どもや人に、「何か自信をもてるものをみつけなさい」と周りの人は言う。特別の能力もない私にとって、自信がもてるものなど何一つなかった。自信はないけれど、読書をしている時、映画を観ている時は目の前の苦しさを感じない、意識しないで済んだ。何かに夢中になっているときは、私にとって唯一、強い劣等感から解放される時間だった。今日一日、今日一日と、21歳の夏まで生き延びてきたような気がする。
 小学生の高学年頃から、当時、父親が収集していた記念切手を売りさばいては映画館に入り浸っていた。私は、女優よりも男優が好きだった。バート・ランカスター、クリント・イーストウッド、高倉健の三人だ。この三人はデビュー作品から、映画人としての変化、成熟を見続けてきた。

 バート・ランカスターは、「真紅の盗賊」などのアクション映画から、重厚な「山猫」や「エルマー・ガントリー」などアカデミー主演男優賞俳優に変わっていく。クリント・イーストウッドも、テレビドラマの「ローハイド」のカウボーイから「マカロニ・ウェスタン」を経て、ハリウッドを代表する俳優・映画監督になった。高倉健も、デビュー作「電光空手打ち」などでは、ここまでの俳優になるとは思わなかったが、大きく化けた。

 私が言友会を創立した1965年、国家権力・大学当局と闘っていた私たち全共闘世代に圧倒的に支持を得た「昭和残侠伝」「網走番外地」のヤクザ映画が始まった。そして、「幸せの黄色いハンカチ」のような作品へと転じ、健さんは文化勲章を受章する映画人に変わっていった。健さんが亡くなって1か月になるが、「週刊朝日」臨時増刊が出版されたり、共演者だけでなく、裏方のスタッフ、ロケ地で撮影に協力した人々にも、優しく接し、出会ったことを宝物のように語る、テレビの特別番組を見て、人が、変化、成熟する姿を思った。

 1976年の私の二冊目の著作、「吃音者宣言−言友会運動10年」(たいまつ社)の裏表紙に、私の恩師、大阪教育大学の教員への道を作って下さった神山五郎先生が、「常にすがすがしい好漢」のタイトルで次の文を書いて下さった。

 「高倉健に惚れ、かつどもりである大学教官というように彼を紹介しておこう。事実、伊藤伸二を慕うどもる人びとや関係する学生は多い。彼自身も面倒見がよくつねにすがすがしい。
 彼がどもりながら話すせいか、聞き手はつい彼の指示に素直に従ってしまう。かようにどもりであるメリットを生かし続けている好漢である。
 この度、どもりであることを主張し生かす自他の方法、体験などを集め、評価し、書となすという。草稿はまったく見ていない。世のなかから厳しく批判された方が薬になる段階に彼はいる。読者の叩き方が強ければ強うほど、彼は強くなる。一つおおいにやっつけてください。彼がどうさばくか、それをみるのもまた楽しい」

 健さんは、映画史上最も過酷な雪中のロケに自分をさらした映画「八甲田山」を転機にあげ、人との出会い、作品との出会いが自分を変えたという。三人の映画人のように、私が成長してきたかと言えばこころもとないが、健さんが大切にしてきた「人に、想いを伝えたい」は、ずっとしてきたように思う。同時代を生きた健さんの死は寂しいが、自分の人生を振り返る機会にしたい。

 どもる人間としての想いを伝えることで、どもる子どもたちが、吃音親子サマーキャンプで出会って欲しい。その出会いやできごとを通して、変わっていくきっかけとなればうれしい。 健さんありがとう 合掌

 2014.12.23 「スタタリング・ナウ」NO.244

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/14