神山先生とのエビソードはまた書きますが、忘れてしまいそうなので別のことを。

 今、日本吃音臨床研究会のニュースレターでは、1月号からずっと障害認定、発達障害者支援法について特集を組んでいます。これは、6月号まで続く予定です。5月号は、まだ発行されていませんが、今、編集中で、掛田力哉さんの文章を掲載します。掛田さんの文章は、次の「おわりに」で締めくくられています。

 障害児教育に携わり、そこから給料をもらっている私のような人間が言うと大きな語弊があるかも知れないが、敢えて言うなら、「障害のない人」が「ある人」に対して常に完璧な配慮や支援を重ね続けなければならないような、寒々しい人間社会にしたくないとの強い思いが私にはある。
 「あなたの事、良く分からないし、全部共感する事なんて出来ないけど、でもお互い色々あるよね」というごく人間的で緩やかな人間関係が許されない世の中ほど、窮屈なものはない。もっと互いがそれぞれの持つ固有の困難や生き難さについて、喜びや悲しみについて、語り合い伝え合い、想像力を働かせ合い、学び合いながら「対等に」生きる社会は作れないものだろうか。そんな思いの延長線上に、「吃音を安易に障害にしたくない」という私(たち)の主張がある。是非、私たちと一緒に、皆さんにも考え続けて欲しい。

 ここでふと、毎日新聞5月1日号「くらしなび」のコーナーで、盲導犬とともに買い物をする人の写真と共に、『「盲導犬理由に差別」が9割』というタイトルの記事があったことを思い出しました。

 このタイトルだけ読むと、なんと日本はひどい国だと感じてしまいます。ところがよく読むと、僕からすると違うものに感じ取れるのです。

 盲導犬育成と視覚障害者への歩行指導をする公益法人アイメイト協会が盲導犬現役使用者へのアンケートの結果、「盲導犬を理由に嫌な思いをしたことがあるか」の問いに、89.2%の人が「ある」と答えていると書いてあります。そのような差別を経験した場所として、居酒屋や喫茶店を含むレストランが78.3%と、最も多いと言います。

 記憶違いなら申し訳ないですが、今話題の乙武洋匡さんが、以前イタリアレストランで店に入れてもらえなかったことを怒り、ブログで店の名前を公表したことで、その店が苦境に陥ったと、そんな記憶があるのですが。前もって予約の時にそのことを伝えればよかったとのコメントもあったと記憶しています。

 毎日新聞の記事に戻ります。差別を経験した際の対応として、使用者の4分の3が「その場で説明し、理解を得る」ことを挙げ、その結果、理解不足の是正や居合わせた人のフォローなどによって、約7割が「入れるようになった」と言っています。最後まで記事を読んで僕はほっとしました。

 メディアはどうしてこのような切り口で記事を書くのでしょう。なぜ、メディアはこの7割に注目しないのでしょう。ここに焦点をあてれば、違うタイトルになり、記事内容も違うものになっただろうと僕は思いました。差別ではなく、知らないがための対応をしてしまったが、説明を受け、周りのサポートもあって対応を反省し、その対応を変える。これは「9割が差別」とは違うだろうと僕は思います。

 知らないこと、未知の経験であれば、人間はとりあえず、これまでしてきた、慣れた行動をとります。時にその行動が、当事者にとって不快なものだったとしても、説明を受けて、行動を変え、今後はこのような状況があった時は、適切な対応をするとなれば、このプロセスはやむを得ないことだと思います。

 吃音は、どもらない人にとって、とても理解しにくいもののひとつでしょう。「吃音の苦しみ、困難さを理解してほしい」と声高に叫ぶのではなく、困ったとき、理解が必要な時、「吃音とは」という一般的に広げるのではなく、個別にその人が自分のことばで自分のことを語って理解を求めることをすれば、事態は変わってくるのではないでしょうか。「全ての人が、自分が快適に過ごせるように、説明しなくても理解すべきだ」と考えると、自分にとって社会は生きづらいものになります。直面したときに、その都度説明し、理解を広げていく。このことが、回りくどくても、自分が主体的に関わり、自分が生きやすい環境に変えていくことにつながるのだと僕たちは思います。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/13