神山先生の思い出の続きです。
 卒寿のお祝いの会では、ひとりひとりがスピーチをしました。僕は3番目だったので、4分ほど話したのですが、後の方の人は申し訳ないことに、名前を言うだけにとどまりました。その時に話したエピソードの一つです。

 横浜のご自宅宛てに、まったく個人的な用事で手紙を書きました。すると、しばらくしても返信がきたのですが、返信に添えて、僕の手紙が赤ペンでかなり添削されていました。拝啓や敬具の形式的なことや、宛名、差出人、書いた年月日、文章までです。「おいおい、ここまでするのか」と一瞬「ムッ」としましたが、これはありがたいことでした。手紙を書くとき慎重になりました。

 提出した論文を目の前でさっと読んだ神山先生は、「ボツ」と一言言って、どこが悪いのか指摘もせずに、破ってしまいました。ここでも、「おいおい、そこまでするか」と腹が立ちました。破られた原稿を読み直しても、どこが、破られなければならないものなのかが分かりません。神山先生に尋ねたのか、自分で気づいたのか忘れましたが、「句読点」がなかった程度のミスだったと思います。ほとんど変わらない文章を句読点に気をつけて再提出したら受け取ってもらいましたから。内容がどうかよりも、最初でダメだったということでしょう。

 固有名詞、機関名などは、絶対に間違ってはだめだと、何度も叱られました。気をつけてもつい、間違うこともあったのです。これらにも神経をとても使いました。非常勤講師の先生への依頼文や、文部省への申請文書など間違いはあってはならないのは当然のことでした。

 できるだけ一文は短く、が神山先生の文書スタイルでした。確かに先生の書く文章は、テンポよく歯切れのよいものでした。長くなった文章をよく添削されました。確かに声を出して読んでみると、僕の書いた文章が歯切れが悪いのがよく分かりました。一文を短く、は今でも心がけています。
 
 「データをして語らしめよ」ともよく言われました。論文や文章は短ければ短い方がいい。しかし、それがきっちりと相手に伝わる必要がある。書いた人が死んでも、その文章が理解されないといけない。文章を要約して、短く書く訓練もさせられました。朝日新聞コラム「天声人語」を文意が伝わるように圧縮することもよくしました。当時、京大型カードと呼ばれたA6版のカードを使っていました。ほとんどをこのカード一枚に書くのです。トヨタ自動車が、一枚の文書ですませることが、経営の秘密だとの本もありますが、あの当時から神山先生は、一枚のカードに書くことにこだわりました。しかしその内容は、カードを書いた人が死んでも、そのカードだけでひとつの内容が明確に分からなくてはいけないというのです。これもとてもありがたいことでした。

 書いた本人は、前に書いた文章が頭に残っているので、つい読み手も知っていると錯覚して、文章をはしょってしまいます。A6版のカードを読む人が、そのカードだけを読むと想定して、その人に分かるように書かなくてはいけない。これは今でも、僕はできているかどうかは心許ないのですが、心がけてはいます。


 東京都立大学の教授だった、国語学者、大久保忠利さんに、「表現読み」のワークショップに来ていただいたことがあります。講師依頼の手紙のやりとりや、僕の書いたニュースレターなどの文章を読んで、大久保さんは、「伊藤さんは、なかなかの文章の書き手だと私は思うが、どこかで文章修行をしましたか」と言われたことがあります。文章を褒められたのは初めてだったのて、とてもうれしかったのでよく覚えています。私信を赤ペンで返信するなどの、厳しい神山先生の指導のおかげだと感謝しています。
 残念ながら、今、あのころの緊張した中での文章が書けているかというと、自信がありません。このブログも時間に追われて書いているために、読み直しをまったくしないので、誤字脱字だらけだと思います。このような文章なら、また、赤ペンで真っ赤になることだろうと反省はしていますが、一度ゆるんだものは、なかなか元には戻りません。お許し下さい。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/12