大阪教育大学の1年間

 ふとしたことから大阪行きをきめたものの、学費は安いものの生活費がありません。準備して動くのではなく、いつも突発的に動いて後から考えるのが、僕の人生のくせです。さて、どうするか。僕の家はとても貧乏だったので、4人の子どもが大学へ行くのはたいへんだったろうと思います。東京の大学へ行ったのも、何も明治大学に行きたかったわけではなく、「どもりを治したい」の思いばかりで、「どもりは必ず治る」と宣伝し、子どもの頃から新聞や雑誌に載っていた「東京正生学院」に行くのが目的でした。

 どもりの悩みに支配されていた僕は、高校時代勉強をまったくしませんでした。当然2浪します。しかし、家は貧しい。三重県の津市から近鉄で大阪に出て、上本町についてから朝日新聞を買い、新聞配達の求人を見つけて、電話して、豊中の曽根駅の近くの新聞配達点に住み込みました。その時の話はいろいろとあるのですが、省いて、一年間新聞配達をして試験料、入学金をそこで工面しました。そして、今度は東京の明治大学の近くの新聞配達点店から、僕の大学生活がスタートするのです。吃音に悩み、どもっていた僕に出来る生活費を稼ぐ道は、黙って仕事ができる新聞配達しかなかったのです。

 こんなわけで、東京での大学生活の全ての費用は自分で稼いでまかないました。新聞配達は、東京正生学院の寮にはいるまでの夏休みまでで、1か月の寮生活の後は、小さなアパートで、ありとあらゆるアルバイトをして大学生活をおくりました。その時、言友会も作っていて、必死に活動をしていましたから、アルバイト生活と、セルフヘルプグループ言友会の活動にほとんどのエネルギーがそがれていましたので、大学で勉強をしたという意識はあまりありません。

 しかし、大阪教育大学では、好きなどもりの勉強、障害児教育、心理学などの勉強なので、過去7年間の大学生活のように、アルバイトはしたくない。大学の勉強に専念したいと思いました。さて、どうするか。父親にたのむことにしました。7年間で子どもたちは成長し、親の方も生活が少し楽になっているとおもったので、生活費を出して欲しいと父親に頼みに行きました。

 27歳、もうすぐ28歳になる男が、就職をしないで、また一年勉強したいからお金を出して欲しいと言う。「いい年して、いいかげんにしろ」と言われても仕方がありません。しかし、父親は何の苦情も言わず、「おまえが本当にしたい勉強があるのなら、出してやる」とあっさりと言ってくれました。7年自分で生活してきたのですから、きっと親父は許してくれる。僕は親父を信じていたのだと思います。

 そして、大阪教育大学の生活です。小学校2年生から、ほとんど勉強らしいことをしてこなかった僕は、勉強する薪(まき)がまだたくさん残っていたのでしょう。現職教員の内地留学の過程だったため、ほとんどが、小学校の教員でベテランの先生です。その中で、村上さんと僕とあと3人ほどが若い人間でした。神山先生のことば通り、毎日がエキサイティングの連続で、緊張感あるものでした。いきなり、ゴールデンウィークに大学に寝袋をもちこんでの合宿です。アイディアあふれる神山先生の教育スタイルに魔法がかかったようにのせられて、夜遅くまで研究室で激論し、論文を書き。毎日がお祭りのような、楽しく、充実した1年でした。教授陣もいまから考えてもすごい人たちが、大阪教育大学平野分校の障害児教育講座には集まっていたのです。

 卒業し、就職をするころになって、神山先生から、1年間研究生として残れと言われ。僕は研究生としてもう一年、神山研究室の教務補助として、少し給料をもらって残ることになりました。ここから、神山先生と濃密なつきあいが始まり、僕の人生も大きくかわっていくことになるのです。   つづく

 これまで、このようなことは書いたことはないのですが、折角神山先生の90歳のお祝いにたちあつたことをきっかけとして、書き始めたら、こんな文章になっていきました。少しつづきも書いていこうと思います。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/09