スタタリングナウの紹介です。
 今僕は「吃音者」という言い方はしません。「吃音者宣言」の宣言文の起草者ですが、その当時からこの年ぐらいまで、使っていました。今は使わなくなりました。どもる人を使います。それは世界の潮流でもあります。今、映画監督の羽仁進さんの映画が再評価されて、大阪でも1か月、羽仁進監督の映画が連続して上映されようとしています。スタタリングナウの再録のタイミングに羽仁進さんが今回でてきたのも、何かの縁でしょう。

 スタタリングナウ   NO.4 1994.11.1

             ノーベル賞と吃音者

 −「エッ、江藤、しっ、しっかりしろよ。エ、江藤、お前は堂々としているなあ。しっ、しっかりしろ。だ、だいじょうぶか。江藤。お、お前本当に堂々としているな」

 大江はほとんどひとりごとをいっているのであった。私が聴いているなしにはおかまいなく、吃りをまるだしにして、さすってくれながらそうつぶやいていた。これを聴くうちに、私の両の眼に熱いものがあふれてきた。そういえば、大江が「お前」と言ったのも私を「江藤」と呼び捨てにしたのも、このときがはじめてだったような気がする。大江がそれをまるでひとりごとのようにいっているのがよかった。私はその時、大江の優しさが私を包むのを感じた。−大江健三郎全作品2 付録 新潮社

 若いころ、羽仁進さんらと一緒に飲んで泥酔し、みじめになっている時、大江さんから受けた介抱を、江藤淳さんがいつまでも覚えている。大江さんの人柄が偲ばれて心温まる、エピソードだ。

 「ノーベル賞の受賞者は日本に8人いるが、その中に吃音者が2人いる。物理学賞の江崎玲於奈さんと今回の文学賞の大江健三郎さんだ」との発言から、大江健三郎さんのノーベル文学賞受賞が決まった次の日、大阪吃音教室で大江さんのノーベル賞受賞が話題になった。

 「僕はどもるし、そのことで悩んだことはあったかもしれないが、吃音者とレッテルを貼られるのは…、僕は小説家だ」と、自分のことが吃音者のグループで話題になっていることに、当の大江さんは苦笑いをされることだろう。大江さんがどもるということを知っている私たちは、吃音者の先輩としてだけでなく、さらに平和や障害者問題に対する発言に共感をし、尊敬と親しみを抱いていた。そこで、不躾にも、言友会創立25周年の記念大会に記念講演をお願いした。

 「せっかくですが、私は吃音に関して何も話すものは持っていません…」と、その時丁寧な断りのおハガキをいただいた。吃音ではなく、核の問題、障害者問題について話して欲しいとお願いしたら、来て下さったかもしれない。

 私たちはいろいろなメディァを通して他人の人生を知ることができる。どもったことがある、あるいは自ら吃音者と名乗る方々にお手紙をさしあげたり、講演をお願いしたりする場合がある。その時のその人の対応は様々で、興味深い。吃音者であることをむしろ誇りにし、私たちの働きかけに応じて下さる方もいるが、「かつてどもった経験はあるが、私は吃音者ではない」と、吃音者からの仲間扱いに不愉快さを率直に表明される方もいた。

 大江さんは、『個人的な体験』にみられるように自己受容の人である。吃音を否定されている人ではない。むしろ吃音の受容が大江さんのことばにある《仮の受容》の役割をし、ご子息、光さんの誕生から子育ての過程の《本当の受容》に至ったのではないかと推察することも可能だ。

 吃音に悩み、吃音に大きく人生を左右されている人にとっては、《吃音者》としての自覚が必要な時期はあるが、吃音に影響されずに生きている人にとっては、《吃音者》のレッテルは不本意ではないだろうか。また、《吃音者》のことばには、吃音を過剰に取り込みすぎている感じがしないではない。

 大江健三郎さんのノーベル賞受賞の日、大江さんからのハガキを思い出し、『吃音者宣言』の起草者でありながら、《吃音者》ということばについて改めていろいろ考えてみた。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/06/01