大阪吃音教室は、これまでにないある緊張の中でスタートしました。40年前に「吃音を治す努力の否定」という、センセーシヨナルな提起をしたのですが、それに似た感慨をもって、新たな年度へスタートしました。
 僕がまた書くつもりですが、仲間の西田逸夫さんが書いて下さったものをまず紹介します。

 

4月11日、2014年度の大阪吃音教室を開講しました。
開講式には珍しく、初参加の方がおられませんでした。そこで、以前から伊藤伸二が深い関心を寄せ、「吃音とともにどう生きるか」を考える大きなヒントとなる仏教思想について、じっくり話し合う機会にしました。

 まず、今春から行信教校(ぎょうしんきょうこう=浄土真宗本願寺派の僧侶、教師を育成する専門学校)に通い始めた村田朝雅が、仏教思想、中でも法然、親鸞の「他力本願」の思想を概説しました。
それを受けて伊藤が、法然の「難行」(なんぎょう)と「易行」(いぎょう)についての考え方を解説し、どもりの課題とのつながりについて、伊藤が日頃考えていることを語りました。

 「どもりを治す」というのは、吃音専門の臨床家も難しいと表明し、長期間単調な訓練を続けても達成できるかどうか分からない「難行」です。それに比べて、自分がどもることを「しかたない」と認め、「どもりのままで日常を生きる」ことは、どもる人が誰でもその気になりさえすればできる「易行」です。

 もともと、仏教徒には「難行」がつきものでした。
 長期間、つらい修行を続けるのが当たり前と考えられていました。法然は、それではごく一部の仏教徒しか救われないので、信心を持つ人なら誰でも救われる方法を考えに考え、「ただただ念仏を唱える」という「易行」に思い至ったのでした。

 今、「どもりは治さないといけない」という固定観念を持つ人が多いのは、仏教思想の流れに置き換えると、「難行苦行を積んだものだけが救われる」とほとんどの仏教徒が考えていいた頃に対応するのではないでしょうか。
どもる人の多くが「易行」に勤しみ、日常生活を楽に豊かに生きる日々が少しでも早く来るよう、2014年度も大阪吃音教室の活動を活発にし、広めて行きたいと再認識した、そんな開講式でした。

 西田さんの文章でした。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/04/30