私たちの仲間が、朝日新聞に投稿し、3月10日の朝刊に掲載されました。朝日新聞のレジタル版からコピーしたものを紹介します。


吃音への理解−「劣ったもの」ではない゙

 私は教員の仕事の傍ら、どもる人の自助グループ「大阪吃音(きつおん)教室」や「吃音親子サマーキャンプ」の運営に携わっている。

 吃音を苦に若者が自殺したとする1月28日付朝日新聞の記事に反響が続いた。多くが「吃音が社会に理解されること」が緊急の課題と論じており、それは私も同感である。

 しかしながら、記事や投書で見られた「言い終わるまで待ってあげてほしい」「生徒の心理に配慮し、無理に読ませたり言わせたりしない」という指摘は、真の意味での理解とは言えないのではないか。むしろ、どもる私たちへの無用の配慮や偏見を生むのではないかと危惧している。

 どもる人は、どの言語圏にも人口の1%程度。言葉を発しようとする時に声が思い通りに出ない不便さを抱えながら、日々の会話や仕事に向き合う人は世界中にいるのだ。

 ただ、その思いは千差万別である。声が出ない時、言い終わるまで「待ってほしい」人もいれば、そうではない人もいる。人前が苦手な人もいれば人前でしゃべりたい人もいる。中途半端な知識による「配慮」ではなく、一人ひとり違う人間として、どもる人とどもらない人が率直に対話できる関係を作りたい。

 「スラスラと流暢(りゅうちょう)に話すこと」こそが優れた言語コミュニケーション能力である、というのは誤解の域を全く出ていないとも思う。就職や進学の面接、スピーチ、商談、プロポーズ――。真剣勝負の場で、どもりながら臨んできた私たちが知り得たのは、ぎこちなく訥々(とつとつ)とでも、相手への想像力を働かせながら自身の学びや経験、夢や希望を率直に語るとき、多くの人は耳を傾けてくれるという事実だ。

 吃音の最も深刻な問題は「どもること」そのものではない。吃音を「悪く劣ったもの」と捉え、どもることを恐れ、様々な行動を回避する否定的な思考、行動、感情にこそ問題の根がある。吃音を治す方法はないが、こういった思考や行動を客観的に見つめ、変えるための学びや方法はたくさんあるのだ。

 まず、どもる自分を認める。「できれば、どもりたくない」「恥ずかしい」という思いを持つことがあっても、言いたいこと、言うべきことは自分の言葉で誠実に語る。不便さを持ちながらも、自分らしく生きようと学び続ける私たちの活動の輪には、どもらない多くの人も何かを感じ、次々と加わってくれている。吃音は豊かに生きるためのテーマとなり得るのだ。今こそ多くの人に吃音の世界への興味を持ってほしい。

 (かけたりきや 大阪府立支援学校教員)

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/11