大阪吃音教室の僕たちの仲間である、西田逸夫さんが、ことばの言い換えについて、興味深い記事を紹介してくれました。みなさんにも紹介したくて、一部分ですが紹介します。

 ことばの言い換え

 自分で話を切り出す前は、相手のことや、その場のことを考えて言葉を選んでいても、いざ話そうとして、その言葉の最初の音に詰まってしまうと、たいていの場面で別の言葉に言い換えてしまいます。いまでは(後で書く事情により)平気になったそんな言い換えが、当時はつらくてたまりませんでした。
 10才の頃に吃音症状が始まってから、言葉の言い換えをずっと続けていたことに、その頃すっかり疲れてもいました。それは、吃音に抵抗し続けることから来る疲れでした。言葉を言い換えなければどもってしまい、たとえ言い換えても、代わりの言葉でどもってしまうことが多く、幾ら抵抗しても吃音にはかないませんでした。ごくたまにうまく話せて、余りどもらずに済んだ後でも、言葉を言い換えた果てのことなので、徒労感ばかりを感じたものでした。更に多かったのが、そのように詰まらずに話せる言葉のセットを用意している間に、話し出すきっかけを失ってしまうことでした。一言で言えば、言葉についての違和感、自分の言葉を話しているという実感を持てないことが、私を苦しめていたのです。

<吃音に降参して>

 こんな風に、吃音に抵抗するのにすっかり疲れを感じていた私は、あるとき、言葉の言い換えをやめてしまおうと思いました。話そうとして言葉に詰っても、どもってしまっても、そのまま話し続けることにしたのです。自分の吃音に降参することにしたのです。21才の秋。7年通って中退した大学の、3年生でした。
 当時親しくしていた友人と一緒に、生物学のある研究室に向かう道すがら、「どもりを避けることをやめたんだ」とその友人に話したことを覚えています。その研究室で話した内容は忘れてしまったものの、その日は随分ひどくどもりながら、色々と話した記憶が残っています。
 ひどくどもったのに、それがつらくなくて、むしろ爽快でした。その場にいた先生や友人がどう感じたかはとにかく、自分では平気でした。それまでは、同じ研究室で動物学の大層面白い図版を色々見せてもらっても、ごくたまにポツリと感想を言うくらいしか出来なかったのに、その日は自分からたくさん話せたのです。このとき初めて、「自分の言葉を話す」実感を持てました。
 しかし、何人もを相手にこれを続けているうち、自分は爽快だけれど、聞き手はこれではたまらないだろうと思うようになりました。電話では特にそうです。私も吃音の知り合いから電話を受けることがあり、電話口で相手がどもるとどれほど聞きづらいか、良く分かっていたからです。
 そんなことから、「私は吃音です」と、自分から言うようになりました。同じように聞きづらい思いを聞き手にさせてしまうにせよ、あらかじめ吃音だと伝えて置く方が、少しは良いかと思ったのです。初対面の人には必ず、私を知ってる人にも、その日の調子によって、ひどくどもりそうなときにはまず、「これからどもります」と言うようになりました。
 自分の吃音を公表している吃音者は、たいてい「初めて公表したときには勇気が必要だった」と言います。大きな葛藤を体験した人もいます。それに比べると、私の場合は、自然な流れでいつのまにか公表を始めていました。吃音を公表するに当たって、勇気とも葛藤とも無関係でした。吃音に降参したときから、公表への流れは出来ていたのです。


<更なる降参が待っていた>

 しかし私の、「どもるときにはどもってしまおう」という方針と、それに伴う爽快感は、長くは続きませんでした。その年の冬、あることがあって、私の高揚感は見事に砕けてしまいました。
 ことさらに言うまでもなく、会話は相手があってのことです。私の会話の相手になってくれる人は、私と話がしたいわけで、私のどもりと付き合いたいわけではありません。自分がいくら爽快でも、ひどくどもりながら話すのは、自分勝手という点では、酔っぱらいが回らない舌で、クドクドと喋るようなものです。
 冬にあった出来事で、そのことを手ひどく思い知らされた私は、一旦は自分に禁じた、音に詰まりそうになったときの言葉の言い換えを、再び始めることにしました。吃音への降参に続いて、言葉の言い換えに降参したわけです。不思議なことに、以前はとてもつらくて、いやだと思っていた言葉の言い換えが、自らの選択で再開してからは、それほどつらいことで無くなっていました。
 こうして、吃音を巡る2度の大きな波を、僅か数ヶ月の間に経験して、それまで自分の中に閉じこもり勝ちだった私は、初めて他者との関係で自分の吃音を考えるようになりました。
 思えば、吃音の公表と、それに続く言葉の言い換えの再選択が、初めて私が自覚的に行った、他者への積極的な配慮でした。それまで私と他者との関係をさえぎる原因の一つだった自分の吃音が、この時期から、私と他者との関係を結ぶ窓の一つになったのです。   西田逸夫

平井雷太編集『教えない教育』 2002年4月号への寄稿記事に、2004年5月一部加筆修正

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/01/27