





初春・大歌舞伎「傾城煩反魂(けいせいはんごんこう)の昼の部の舞台がはねて、どもりの又平と、歓喜のおどりを一緒に踊っているような高揚感をもって、新橋演舞場を出ると、予想もしなかったそこは一面の銀景色になっていました。
金曜日から神奈川、東京の滞在は吃音ワークショップや志の輔落語、思いがけないうれしい人との出会いがあるなど、充実した4日間でした。その締めくくりが歌舞伎でした。
1月14日、久しぶりに観た歌舞伎が、以前から観たかった「傾城煩反魂」です。歌舞伎に行くことになろうとは、大阪を発つときは想像もしませんでした。金曜日に行った神奈川県の秦野市立西小学校で、昼間はどもる子どもと、保護者と語り合いました。夜は、その催しを企画した4人の教師との懇親会です。吃音についての楽しい語らいをしているとき、正月に始めて行った歌舞伎が、どもる人間が主人公だったので、驚いたとの話を聞きました。
難しい名前の演題なので名前は正確には言えなかったのですが、どもりの又平の物語だとすぐに分かりました。東京滞在の最終日がまだ予定なしです。以前からみたかった舞台です。「ここで会ったが百年目」と、観に行かないわけにはいきません。千葉のことばの教室の仲間を誘って三人で行きました。また、報告しますが、土曜日に聞いた、立川志の輔落語の演題が「百年目」です。何かの因縁を感じざるをえません。
大きな力のはからいで、念願だった「どもりの又平」の、それも大好きな、人間国宝・中村吉右衛門の又平をみることができたのです。そして、7年ぶりの東京の大雪の銀世界に、「こいつあ、春から縁起が良いわい」の歌舞伎の名セリフが口をついて出てきました。
雪の中、銀座で食事をしようと歩き出したのですが、雪で人通りもなく、歌舞伎を見に来た人たちともはぐれ、きがついたら大回りをしてやっと地下鉄の駅にたどり着き、三越の上で食事をしていたとき、まさか、飛行機全便が欠航とは知りませんでした。モノレールに乗ろうと「浜松町」行ったら、飛行機は全便欠航。急遽新幹線で大阪にもどったハプニングも楽しむことができました。夜遅くの帰阪もきになりませんでした。
近松門左衛門作の「傾城煩反魂」は、絵師の又平が、土佐の名字で名乗ることを、後輩に先をこされてあせり、師匠に自分も名乗らせて欲しいと訴えますが、どもって言えません。代わりに弁の立つ妻とくが切々と訴えるのですが、実力があっても絵師としての功績がないために許してもらえません。絶望して死ぬことを覚悟し、切腹しようとした時、妻のとくに説得されて、今生の名残として石の手水鉢に自画像を描くと、その絵が石を通して鉢の裏側に抜ける奇蹟が起こり、絵師としての実力が認められて、土佐の名字をなのることを許されるのです。
絶望から、天国へ、歓喜のおどりは、はちきれんばかりでした。ひどくどもって言えない夫と対照的に弁が立つが、夫をつねに支える夫婦の情愛を描いた名作です。
死を覚悟して、必死に絵筆を握る又平にはもう世間体とか、名誉とかは関係がありません。ただ、一心不乱に絵を描いてく。書き終わったときには、侍が大勢の人を切った大立ち回りをしたとき刀が外れないように、又平の手から絵筆が離れません。まだ、奇跡が起こっていることを知らない妻は、死に向かう夫とのこれまでの夫婦生活を思い出しているのか、慈しむように、一本一本指を絵筆からほどいていきます。必死で絵筆をふるった夫を誇りに思い、お疲れさんでしたと、労をねぎらう、妻の愛情あふれる名場面です。
人並み以上に弁の立つ又平の妻おとくは、出しゃばりではありせん。ほとんどの場面で、夫の求めで、夫の考えや気持ちを代弁します。今回も、又平はどもる自分に変わっておとくに言ってもらっているのですが、妻の切々たる訴えを、師匠が聞き届けてくれません。どんなにどもろうと、自分が、自分の言葉で言うしかない。
それまで、妻の代弁に頷いてばかりいた又平が、今度ばかりは、自分のことばて、どんなにどもろっても伝えたいと思って、敢然と話し始めます。のどをかきむしるように、必死に、自分の言葉で、必死に声を振り絞る、中村吉右衛門の名演技で、その必死さがつたわってきます。どもるは、身を乗り出しで見ていたと一緒に行った人が笑っていました。
近松門左衛門があの時代、このような、どもりを温かく描く作品を書き、それを歌舞伎の名優が演じ続けてくれている。どもりの歴史を思い、感謝の気持ちがわいてくるのです。いろんなことが起こった4日間でした。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2013/01/15