ひとりの精神科医の豊かな人生

 「今日は、出かけるのを控えましょう、台風並みの悪天候です」。天気予報通り、
中央線の武蔵境駅につた時には、雨が降り出し風も強くなってきました。タクシーでルーテル学院大学に着き、会場のチャペルの受付に行くと、「これ、増野先生からのクッキーです」と、ダンスをしている増野さんのイラスト入りのクッキーと、最終講義の案内のレジメを渡されました。クッキー?と思ったが、そこが増野さんらしいところなのでしょう。
 増野さんはすぐに、私たちをみつけると、にこっと笑って、「すみません。忘れてまして。大体見たので、もうすぐ送ります」と言われた。東京に来る前に印刷に回しておきたかった日本吃音臨床研究会の年報「サイコドラマ入門」の原稿のことだ。チェックしてほしいと頼んでいたもので、忙しいのでもう少し待ってほしいと言われていたものだった。 会場にはもうすでにたくさんの人が入っていました。さすがに誰一人知った顔はいない。ちょうど舞台の真ん前の席が空いていたので座る。特等席です。いすがひとつ置かれているだけの舞台、左の方にたくさんのパイプいすがあって、みんな黒い服を着て、少し緊張した面持ちで座っています。今日の出演者です。
 レジメには、「私の歩んできた道と社会福祉 喜寿を迎えて」とあり、社会情勢とともに、年表が細かく書かれています。
 本来の最終講義は、昨年の3月12日に予定されていたが、前日の東日本大震災のため、1年延期されたのです。この1年間で、シナリオもずいぶん変わり、温め、練り直し、熟成された舞台を見ることができるのは幸せでした。こんな案内をいただいていました。

 「ルーテル学院大学を退職するに当たり、精神科医としての半世紀、大学の教授としての25年間を振り返り、ソシオドラマの形式で上演いたします。本当は、昨年上演の予定でしたが、東日本大震災のために注しになりました。1933年の3月に起きた昭和の三陸大津波の1ヶ月後に生まれた私としては、この問題も取り入れるべきだと考えて、被災地の援助と共にドラマの中でも取り上げるようにしました。神奈川、宇都宮など私が生きてきた各地で上演を繰り返し、内容が整理されました。本来のソシオドラマは即興でやるべきですが、授業でやってきたようにシナリオを書き、音楽を入れてちゅー時刈る形式にしました。精神保健の歴史を取り上げた点はソシオドラマですが、私個人の道筋はサイコドラマです。そこで、シナリオ・ソシオ・サイコ・ミュージカルと名付けました。
 震災によって明らかになった原発の問題も、年間3万人を超した自死の問題も、精神保健の面からは同じ課題と考えます。社会福祉を担うソーシャルワーカーの役割が大きくなります。そして、現在の日本が遭遇している、大きな危機においてはスピリチャルな側面を欠かすことができきません。その意味で、キリスト教を基本にしたルーテル学院大学の役割が大きく求められる時にあるように思います。
 そんな思いを持ちながら、サイコドラマの仲間や、これまで教えてきた人たちと一緒に上演するソシオサイコミュージカルです。お出でいただき、一緒に考えてみましょう。お待ちしています」

 「気が小さかった男が、精神保健の世界でどう生きてきたか、どうぞご覧下さい」という増野さんのことばで、舞台の幕が上がりました。

 舞台の前にあるのは、いすがひとつ。左手に50人の出演者、増野さんは右手に座り、解説、説明しながら、舞台が進んでいきます。
書き留めたメモをもとに再現します。

第1章 増野肇が生まれる前の時代 1900〜1930年代
 1900年に父が、1910年に母が生まれる。そして、この頃、増野さんが影響をうけた人が次々にこの世に誕生している。森田正馬が1874年、ジロドゥが1882年、モレノが1889年、モレノの妻であるザーカ・モレノが1917年。そのたくさんの人たちが次々に舞台に登場し、大事なことばを言っていく。
 精神病院でのひどい体験を綴った本「我が魂に出会う」
 フロイト 恐怖、抑圧された恐怖を解明するのが治療である。
 森田正馬 授業で病気について学ぶと、そのすべてが自分にあてはまると思って悩む。そして、死ぬ気で勉強したら、試験にも合格した。そのとき、人間本来の目的で生きていったらいいんだということを実感する。
 ロジャーズ 人間には、自分で自分を成長させる力がある。治っていく力がある。その力を周りから守っていくのが、カウンセラーの役割だ。
 プラット その頃、結核はおそろしい病気だった。プラット医師は、結核患者を集団で治療した。すると、不思議なことに、仲間の力で、生活を変えていくことができ、仲間がいればがんばれそうだという患者が増えていった。集団療法のはじまりだと言える。
 モレノ 生きている新聞(リビングニュース)という、自分の問題を舞台でやるようになった。サイコドラマのはじまりだと言える。
 酒を断つことができないでいた人たちが、大きな力を信じることと、仲間と一緒に活動することを大切にして、アルコール依存症の会を作った。
 時は、ドイツはヒットラー、そして日本は軍国主義への道を突き進んでいった。

第2章 肇の誕生と成長 1930年〜1950年代
 1933年、増野肇の誕生。幼児洗礼を受けている。
 小さい頃から、2つの性格が存在していた。一つは、気が小さく、こわがりで、おくびょう。特に、大きな音、たとえば、雷や花火、祭りの太鼓の音などが苦手だった。また、大きな波や海、津波が怖かった。だから、泳ぐことが苦手。その一方で、おちゃめで、ひょうきんで、踊りが好きだった。

 花火の音におびえて、うずくまっている肇の周りに、恐怖のダンサーが登場する。黒ずくめの服装のダンサーたちは、肇を取り囲むようにして、指さしながら、低い声で歌う。
♪大きな音は こわーい 怖い 雷 花火に祭りの太鼓
 大きな波は こわーい 怖い 嵐に 地震の大津波
 この恐怖のダンサーは、舞台の中でよく登場します。色と音が舞台の中でアクセントになっていました。

 妻である信子が、1938年に生まれる。信子は、未熟児であった。もうだめかとあきらめようとしたとき、信子の命を救ってくれたのが、母である。体が弱いまま、生きていくことになる。
 肇、暁星小学校に入学。こわがりの性格は直らず、小学校でもおくびょうで、声が出なかった。これを見た父が、近くの江戸川小学校に転校させた。このおかげで、先生に父が話したこともあって、友だちができた。楽しかった。特に、「ま」のつく3人組が仲良かった。3まと呼ばれた。

 日本は戦争に入っていった。島根県に疎開した。そして、津和野で、天皇の玉音放送を聞いた。
 小石川校校に行った。白井君という友人ができた。白井君は女の人によくもてた。白井君と一緒に教会に行った。教会に行けば、出会いがあるかもというやましい気持ちだったが。修学旅行があった。高校でもクラスの中では友だちもいて、楽しくやっていた。ところが、修学旅行のときは、クラスの枠は取り払われ、みんなが楽しくしていた。自由行動になったとき、肇の周りにはだれもいなかった。ひとりぼっちになってしまった。肇にとって、久しぶりのひとりぼっちである。ここでまた、あの恐怖のダンサーが登場してきた。
 白井君は朝日新聞社に入った。肇は、慈恵医大にすすんだ。慈恵医大でも、優れた友人に恵まれた。そして、そこで、ミュージカルを上演した。それが見事に当たったため、その後、やみつきになってしまった。
 父が肝臓癌で亡くなった。父の跡を継がなくていいと思った。
 「間奏曲」ジロドゥのせりふ

第3章 統合失調症と初声荘病院  1950〜60年代
インターンの時、精神病院を訪れた。そのときの恐怖をよく覚えている。分裂病になっても、安心して生きていけるようになりたいと思った。そういう世の中をつくっていかないといけないと思った。大原先生から、心理劇をやってみないかと誘われた。
 そのころ、高良興生病院では、セルフヘルプグループのはしりのような動きが始まっていた。けやき会という、一年に一度集まる会が行われていた。退院してもよくならない、元気にならないということがよくあり、一度は集まった。元気にならないときは、昔の日記を読んで、それで元気になった。
 葉山の病院で、イギリスのジョーンズ先生が、治療共同体ということを言い出した。患者たちが集まってただ話し合いをしているだけで、よくなっていったというのだ。鍵のない病院、みんなが安心して治療できる病院を作りたいと思った。
 そして、初声荘病院を作った。治療共同体や話し合いは、舞台のようだった。喫茶店もあって、そこで、ある一人の女性がシュークリームを作っていた。その人が、後に増野先生の奥様になられる信子さんだった。シャイで気が小さい肇と信子さんは、劇団四季の練習風景を見に行ったことで接近した。「恋愛は誤作動で起こる」と言ったのは、べてるの家の向谷地さんだ。やがてふたりは結婚し、肇は仕事、信子さんは子育てに忙しくなっていった。

第4章 栃木県精神神経センターとセルフヘルプグループ 1970〜80年代
 ソーシャルワーカーの時代が始まった。栃木精神神経センターより依頼があって、行くことになった。キャプランの「予防精神医学」の翻訳をしよう、病院だけでなく県レベルの治療共同体にしよう、地域に安心できるサポートグループをつくろう、次々と事業が広がり、たくさんのイベントがあった。根本にあるものは、当事者を大切にしようということだった。べてるの家もこの頃始まった。

第5章 大学教員としての時代 1990〜2000年代
 日本女子大学の西生田キャンパス。ウィーンに出かけた。モレノに導かれたような旅だった。そこで、信子さんの乳がんが分かった。手術もしない、抗がん剤も使わないと言う。伊丹先生の生きがい療法、石原先生のニンジンジュース断食法をする。
 その前に、高良さんが97歳で亡くなる。精神保健福祉士が国家資格となる。
 医者というより、ソーシャルワーカーとして生きてきたようだ。
 日本女子大学を定年退職した跡、ルーテル学院大学に。ここは、ソーシャルワーカーを育てる大学だった。タペストリー描かれている男が「ようやく来たね。待ってたよ」と言ってくれた。
 信子の再発。そして、その前に、大の親友の白井さん、矢内さんが亡くなる。信子さんも最後はピースハウスで亡くなる。また、ひとりぼっちになってしまった。

 お連れ合いの信子さんを亡くされ、親友だった白井さんも矢内さんも亡くされ、絶望の中にいた増野さん。恐怖のダンサーがまた、踊りながら出てきた。

 何に足してもやる気を失っていた肇は、アメリカに行く。そこで、ザーカ・モレノに会い、サイコドラマの主役をした。ダジャレを連発し、以前の元気な肇に戻ってきた。大切な人を亡くした跡、大きな力で支えられていることを実感した。神を信じるのには時期があると言われるが、今がそのときなのだろう。大きな力、神に支えられていることに気がついた。生きる意味というミュージカルをした。2011年3月、最終上演を行う予定だった。臆病なのは以前と変わっていない。初声、宇都宮、いろいろなところから逃げてきた。逃げてばかりの人生だった。弱さ、やさしさに惹かれて結婚した。ネガティブをポジティブに代えて生きてきた。危機をチャンスに変えてきた。人は弱いものである。だれもが恐怖や不安を持っている。弱いあなただからこそ、助けてくれた。危機は成長のチャンスだともいえる。物事を正しくみて、その道を進みなさい。不安はつきものです。アウシュビッツで救われたのは、希望を持てた人。その希望をみつけるには、サイコドラマが一番いい。

 増野さんの人生を、そのときどきに出会った人を登場させて語らせる。話だけよりずっと立体的になり、厚みが増したような気がしました。ひとりぼっちになった悲しみの中にいた増野さんを救った大きな力に涙が止まりませんでした。
 
 演じている人たちと増野さんとの深い強いつながりを感じました。増野さんの解説が舞台のせりふとズレだときは、訂正が入り、やりなおしもありました。舞台を作り上げていく過程を一緒に生きている気がしました。
 200人の参加者の中で、増野さんしか知らない人たちの中にいても、孤独感はまったく感じることなく、舞台を楽しむことができました。増野さんは、多くの人の深い愛に包まれて生きてこられたのでしょう。私たちまで幸せな気分になりました。

 13時30分開演の舞台は、16時過ぎまで続きました。会場のチャペルを出ると、激しかった雨が上がっていました。わざわざ、このために東京に来た甲斐がありました。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年4月10日