体験をベースにした思いは伝わる


 先週末、7月2日、3日とことばの教室の教師や、ろう学校の教師の集まる、すてきな勉強会にいってきました。子どもの立場に立った教育を実践し、話し合い、次の実践に活かそうと、まじめに勉強を続けているグループです。別の県で行われた私の講演を聞いて下さった人が、私を招いて下さいました。
 埼玉県の教員からこれまで講師依頼をうけたことはありません。また、次回書く予定の、私がはげしく反発して、反対してきた「リズム効果法」の提唱者の本拠地だったために、埼玉の人たちは、「吃音を治す・改善する」に熱心に取り組んでおられるのではないかとの、日頃つきあいがないための、根拠ない思い込みがありました。
 私は、「吃音は治さない、治せない」と極端な主張をしているために、その考えに共感して下さる県の教員と、そうでない教員の県とはっきり分かれるのです。いや、それは、県の中心的に事務局の人たちが、どのような考え方の人を講師として呼んでいるかだけの違いかもしれません。せんだっての、島根スタタリングフォーラムの後に開かれた、島根県の難聴言語障害教育の一日研修会の事務局は、吃音に関しては、何年も私を呼び続けて下さっています。
 ところがまったくお呼びがかからない県もあるのです。そのひとつが、埼玉県でした。なので、どんな人が参加されるのか、私の考えがどこまで伝わるのか、私の考えが批判されかもしれないなどと、少しですが、不安がありました。一方で、新しい出会いへの期待もありました。

 聞いて下さる人によって、私の話の根本が変わることはありません。どんな場でも私は自分の主張はします。今回はめずらしく丁寧に、そのまま読み物になるような、
A4サイズ8ページのレジメを用意しました。そして、どうして私が吃音を治すではなく、どう生きるかという、伊藤伸二の「日本の吃音臨床」を提案するようになったか、体験を踏まえて話しました。
 当然、アメリカ言語病理学を厳しく批判する内容になりました。私の強みと誇りは、自分が体験し、吟味し、大勢の人々と検証したものしか、ことばにしてこなかったことです。私の発言には必ず、私の体験と、たくさんのどもる人やどもる子どもの体験が裏打ちされています。2日間講義をし、参加者のみなさんと話し合う中で、うれしい気持ちになりました。

 アメリカ吃音研究・臨床家はこのように言っているなどという、他人の研究や、臨床を紹介する人が多い中で、私は、自分の体験をベースにした、実際にあった子どもたちの話なので、自分で話していて心地よいのです。このような、心地よさを感じたのは初めての経験でした。
 私は、吃音について話すのがとても好きで、ついつい話しすぎになるのは、このうれしさ、喜びがあるのだと気づきました。自分が喜んで、楽しくて、伝えたい思いがいっぱいにあって、話しているのですから、それが、聞き手に伝わらないはずがないのです。もちろん、信念をもって私の提案に反対する人は別ですが。
 参加者の皆さんが、初めて聞く私の話を真剣に、共感して聞いて下さいました。2日間の出会いの中で、当初抱いていた少しの不安がまったくなくなり、身内の中で話しているような安心感を覚えました。私の、吃音に対するいろんな考えや、実践が、なかなか全国的、世界的にひろがらないのは、私の話を聞いていない人が多いからだと、傲慢にも思えました。聞いて下されば、少なくとも半数以上は理解し、納得して下さると思いました。

 まだ、足を編み入れたことのない土地、私の考えをあまり知らない人との出会いは、少しの不安があっても刺激的でした。体験に根ざした話は、伝わる。そう確信することもできました。

 勉強会の会場のホテルがすてきでした。そして、ホテルの周りの環境もとてもすてきでした。朝食後、静かな自然いっぱいのそのホテルの近くを散歩しながら、この幸せな気持ちは、吃音に深く悩み、その体験を丁寧に整理し、言葉や、本にして発表してきた、私へのご褒美のように思えました。
 参加者のみなさんとの別れ際に、みなさんが、「書籍からだけでなく、直接生の話が聞けてよかった。共感できる納得できるものだった」と、口々に言って下さったのは、とてもありがたいことでした。
 法然や親鸞が、新しい教えを広めるために、町の辻にたち、道行く人に、またどんな小さな集まりも出かけていって話したように、私も、どんな小さな集まりでもでかけて、私の体験からの、吃音についての提案を語ろうと思いました。少しずつですが、新しい「日本の吃音臨床」の仲間がふえていく感じがします。

 2010年7月5日
 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二