今日の電話相談から

 吃音ホットラインという電話相談をしていますが、時々大阪を離れることもあるので、何度も電話をかけ直して下さる方もいらっしゃるようです。
 そういう訳で、自宅にいると毎日少なくとも3件は電話相談があります。子どもの相談が多いのですが、成人の相談も少なくありません。今日は35歳だったかの、牧師さんでした。

 これまで、人前で話すとき、どもりたくないために、吃音をコントロールすることに必死だったそうで、電話でも適度なゆっくりさで、あまりどもりません。吃音をコントロールしようとするあまり、相手とのコミュニケーションにゆき詰まり、宗教者にとって必要な、真実の相手とのかかわりができないと言います。そして、このブログでだか、「吃音を治す努力の否定」のことばに救われたと話されました。そして、吃音ワークブックや、論理療法の本、アサーションの本を注文して下さいました。本が届いて、「話すことの苦手な人のアサーション」(金子書房)を早速読んだ上での質問です。

 アサーションの「相手も自分も大切にしての自己表現」について、相手のことを大切にすることは分かるが、自分を大切にする、自分を尊重する意味がわからないとの質問なのです。
 少し驚きましたが、宗教者として、他者を相手を大切に尊重するということは、理解できるし、普段でも心がけておられることなのでしょう。常に相手を大切にする生活の中からは、相手も自分も大切にするということが、意識されてこなかったのでしょうか。自己犠牲が当たり前の生活なのでしょうか。自分を大切にしての自己表現が分からないとおっしゃるのです。
 
 とても、他者に誠実な方なのでしょうが、それに輪をかけて、どもりたくないという気持ちが強く、人と話すとき、人前で話すときは、どもらない話し方をすべきたという思い込みのために、まわりのことばかりを意識する生活習慣が身にしみているということでした。率直に、分からないことは分からないと話される態度に誠実さを感じました。
 だけど、非主張的な態度は、自分の人権を踏みにじっているだけでなく、かといって、相手の人権を尊重していることにはならない、自分を殺し、言いたいこと、感じたことも言わないためにかえって、相手に対する不誠実な態度になるのだと言うことが、最初はわかりにくいようでしたが、話していく内に、理解して下さいました。

 主張するかしないかは別にして、まず、今、この場面で自分はどんなことを考え、どのように感じているのか、まず、感じること、気づくことが、自分を大切にする第一歩だと話しました。ところが、相手との関わりで、どもるかどもらないかに多くの注意がいっているために、コミュニケーションの場面で、自分の気持ちに気づくことがおろそかになっていたことに、彼は気づいて下さいました。
 彼なりに、吃音をコントロールしていることは悪くはないのですが、それが、どもることを相手がどう思うかだけに意識がいくと、真実の自分を取り戻すことが難しいと考え、「どもるときは、自然にどもるにまかせる」こと。あまり、吃音をコントロールすることを考えず、むしろ、どもった方が、相手は信頼してくれるかもしれないよというような、話になりました。

 自分のことしか、大切に考えられない現代社会にあって、宗教者という職業だからということを差し引いても、とても誠実な方でした。アサーションや論理療法、そして、日本吃音臨床研究会の会員になって下さったので、毎月送られる、月刊紙「スタタリング・ナウ」を読んで、いろいろと勉強していくことになりました。
 「いい牧師さんになれるよ、きっと」でしめくくって、電話を終わりました。
 さわやかな気持ちになった、吃音ホットラインの電話でした。

 2011/06/26
 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二