2010年8月27・28・29日
第21回吃音親子サマーキャンプが無事に終わりました。
北は岩手県から南は鹿児島県まで、全国から126名の参加でした。
ひとりひとりの豊かな表現
今年も吃音サマーキャンプが無事終わった。毎年のことだが、参加者もスタッフも感動して、「参加してよかった」と口をそろえてくれる。卒業式を含めた最終のプログラムが終わり、帰りの送迎バスのくる、ぎりぎりの時間まで、互いのアドレスを交換したり、写真をとったり、とても離れがたい様子だ。社交辞令ではなく、本当に満足して岐路についてくれるのが感じられてうれしい。
昨年は、よかったけれど、今年のキャンプはうまくいくだろうか、病気やケガ、事故は起こらないだろうか。21回目だというのに、常にこのような不安が抜けない。まず、スタッフが集まってくれるだろうか、ということも大きな不安だ。
このキャンプの責任者として、3日間は、緊張の連続だ。自分の担当する話し合いのグループ、親の学習会だけが私の役割ではない。全体の進行、子どもや親の様子、スタッフの様子、様々に目を届けなくてはいけない。
このような緊張の連続だから、最終日、親の表現活動が終わり、子どもの劇が終わり、卒業式が終わり、私が司会進行をする最後の30分ほどの時間が、私をハイな状態にさせる。私にとって幸せな時間だ。以前はオープンマイクで発言したい人を募っていた。今年は劇の時間がかなりかかると予想していたので、準備はない。予想外の時間が余った。そこで、初参加の親子、スタッフ、それぞれのプログラムの責任者や、スタッフとして数年ぶりに復帰した人など、思いつきでどんどん指名していった。突然にふられたにもかかわらず、ひとりひとりが、このキャンプを振り返っての思いを、通り一遍のことばではなく、自分の体験を通して、自分のことばで表現力豊かに語る。それぞれがの思いが伝わる、スピーチだった。
この、みんなの豊かな表現力はどこからくるのだろう。突然に不意打ちのように当てられて、「よかったです。楽しかったです」に少し付け加える程度のスピーチであっても仕方がない。しかし、この場のみんなのスピーチは違う。
親の表現活動、子どもの劇の上演、卒業式と続く、この「終わりの集い」全体に包まれる温かい空気が、その人をこれほどまでに語らせているといえないだろうか。毎年参加していることばの教室の教師が、「今年もぐしゃぐしゃになって泣きました」と言う。この場にいられる幸せが、参加者全体を包んでいる。不思議な、不思議な空間なのだ。この場に居合わせたいから、私たちも続けているし、遠く栃木や鹿児島、千葉などから、ことばの教室の教師が、手弁当で、参加費を払ってまで参加して下さるのだろう。参加しなければならない義務も責任もない。それぞれが、自分の意志で、参加したくて参加している。それが、この空気をつくっているのだろう。
グループで自分を語ること、子どもの劇の稽古や上演のプロセス、親の表現活動なと、このキャンプには、自分を表現するさまざまな仕掛け、プログラムがある。「自分のことばを語る」文化、大切にしてきた「表現としてのことば」が、このキャンプに確実に根づいているのだろう。
出発間際の送迎バスに乗り込んで、「では、また来年会いましょう。元気でね」と一言声を掛ける。そして、バスは出発する。動き始めたバスに手を振ると、窓側に座った子どもや親、立っている人が手を振る。少し走って、橋を渡る辺りでも、まだ手を振ってくれている。バスが見えなくなったときに、私の緊張は一気に解けていく。
「今年も、本当にいいキャンプだった」
荷物を片付けるために、少年自然の家に戻る足取りも軽い。
今年も、無事に終わってよかった。よし来年もと思うが、来年のキャンプの準備を始める頃、この見送りの時間が終わるまで、私の不安と、緊張から解放されることはないのだろう。
キャンプについては、また報告したい。
2010年9月9日 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
第21回吃音親子サマーキャンプが無事に終わりました。
北は岩手県から南は鹿児島県まで、全国から126名の参加でした。
ひとりひとりの豊かな表現
今年も吃音サマーキャンプが無事終わった。毎年のことだが、参加者もスタッフも感動して、「参加してよかった」と口をそろえてくれる。卒業式を含めた最終のプログラムが終わり、帰りの送迎バスのくる、ぎりぎりの時間まで、互いのアドレスを交換したり、写真をとったり、とても離れがたい様子だ。社交辞令ではなく、本当に満足して岐路についてくれるのが感じられてうれしい。
昨年は、よかったけれど、今年のキャンプはうまくいくだろうか、病気やケガ、事故は起こらないだろうか。21回目だというのに、常にこのような不安が抜けない。まず、スタッフが集まってくれるだろうか、ということも大きな不安だ。
このキャンプの責任者として、3日間は、緊張の連続だ。自分の担当する話し合いのグループ、親の学習会だけが私の役割ではない。全体の進行、子どもや親の様子、スタッフの様子、様々に目を届けなくてはいけない。
このような緊張の連続だから、最終日、親の表現活動が終わり、子どもの劇が終わり、卒業式が終わり、私が司会進行をする最後の30分ほどの時間が、私をハイな状態にさせる。私にとって幸せな時間だ。以前はオープンマイクで発言したい人を募っていた。今年は劇の時間がかなりかかると予想していたので、準備はない。予想外の時間が余った。そこで、初参加の親子、スタッフ、それぞれのプログラムの責任者や、スタッフとして数年ぶりに復帰した人など、思いつきでどんどん指名していった。突然にふられたにもかかわらず、ひとりひとりが、このキャンプを振り返っての思いを、通り一遍のことばではなく、自分の体験を通して、自分のことばで表現力豊かに語る。それぞれがの思いが伝わる、スピーチだった。
この、みんなの豊かな表現力はどこからくるのだろう。突然に不意打ちのように当てられて、「よかったです。楽しかったです」に少し付け加える程度のスピーチであっても仕方がない。しかし、この場のみんなのスピーチは違う。
親の表現活動、子どもの劇の上演、卒業式と続く、この「終わりの集い」全体に包まれる温かい空気が、その人をこれほどまでに語らせているといえないだろうか。毎年参加していることばの教室の教師が、「今年もぐしゃぐしゃになって泣きました」と言う。この場にいられる幸せが、参加者全体を包んでいる。不思議な、不思議な空間なのだ。この場に居合わせたいから、私たちも続けているし、遠く栃木や鹿児島、千葉などから、ことばの教室の教師が、手弁当で、参加費を払ってまで参加して下さるのだろう。参加しなければならない義務も責任もない。それぞれが、自分の意志で、参加したくて参加している。それが、この空気をつくっているのだろう。
グループで自分を語ること、子どもの劇の稽古や上演のプロセス、親の表現活動なと、このキャンプには、自分を表現するさまざまな仕掛け、プログラムがある。「自分のことばを語る」文化、大切にしてきた「表現としてのことば」が、このキャンプに確実に根づいているのだろう。
出発間際の送迎バスに乗り込んで、「では、また来年会いましょう。元気でね」と一言声を掛ける。そして、バスは出発する。動き始めたバスに手を振ると、窓側に座った子どもや親、立っている人が手を振る。少し走って、橋を渡る辺りでも、まだ手を振ってくれている。バスが見えなくなったときに、私の緊張は一気に解けていく。
「今年も、本当にいいキャンプだった」
荷物を片付けるために、少年自然の家に戻る足取りも軽い。
今年も、無事に終わってよかった。よし来年もと思うが、来年のキャンプの準備を始める頃、この見送りの時間が終わるまで、私の不安と、緊張から解放されることはないのだろう。
キャンプについては、また報告したい。
2010年9月9日 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二